Y: 言葉は悪いですけど、やっぱり愛染からは「メス」のオーラが出ていて、それが男を引き寄せたんじゃないですかね。彼女は生い立ちも複雑だったし、社会的には良い子ちゃんじゃなかったし、枠にハマって生きる子ではなかったですよね。だけどすごく純粋だった。
それまではその他大勢の役ばかりだったのが、突然売れて、スターになって、戸惑いもあったと思います。ギャラもそれまでは考えられないような金額が入ってきて、お母さんに家を建ててあげたりしてましたから・・・そういう子だったんですよね。不良少女と言うか、野性的なところがあったと言うか・・・言葉が見つからないね(笑)。
代々木忠
1938年、福岡県に生まれる。
20代の時、ピンク映画の世界へ。
その後、現在に至るまで、
日本のアダルト映像の世界を牽引。
人間の性(セックス)を追求し続けてきた。
また、最近は監督としてばかりではなく、
著述家としても活躍し、数々の本を上梓している。
自身の半生を描いたドキュメンタリー映画
『YOYOCHU SEXと代々木忠の世界』が2011年に
公開されるなど、今も根強い支持を得ている。
|
■ 生きたお金の使い方ですよね。今時の普通の子だったら、貯金するか投資に回すかでしょうし(笑)。さて、その後、「アダルト・ビデオ」という概念が世間に定着し、産業として成立していく中で、1988年には劇場作品から代々木監督は撤退されたわけですが・・・
Y: もう制作費と興収が見合わなくなってましたからね。劇場に足を運ばなくてもアダルトが家庭で観られるようになったのは、やっぱりデカかったと思いますよ。一般の映画作品は別として、エッチなものは大勢の中で観るより、1人で観ている方が良いじゃないですか(笑)。だからポルノ映画の衰退は必然だったんですよ。
■ 映画からビデオにシフトするにあたって、映画の世界に後ろ髪をひかれるじゃないですけど、未練などはなかったですか?
Y: 映画に未練とかはなかったですね。もともと映画青年じゃなかったから(笑)。’70年代の初め頃、僕はプリマ企画の制作主任としてロマンポルノを作ってたんだけど、社長や専務に代わって「日活ロマンポルノ裁判」に出て、戦ったんですよ。それは、裁判が終わったら日活が一定の補償をしますって話だったのに、日活の社長が代替わりしたら補償の話が無かったことになって、僕も気が長い方じゃないんで、切れちゃって(笑)。そんなことがあったから、映画の世界に未練はなかった。
ただ、日活のビデオ事業部とは仲が良かったんです。僕の野球チームがあって、日活のビデオ事業部や渋谷警察も野球チームを持っていたから、その繋がりで、ビデオだけは時々作っていたんですよ。その時は興行もやっていて、他の仕事で食っていけてましたからね。それがさっきの愛染の話に繋がっていくワケです。
■ そうすると監督の場合、AV監督というご職業は、ご自身の意志と言うよりは人の縁と流れ、って感じがしますね。
Y: そうですね。振り返ると僕の場合は、自分から何か仕掛けるって意外とないんですよ。受動的というか、決して能動的には動いてない。その代わり、請けたものは徹底的に、自分が納得するまで追求していく感じです。
平成に入ってからはビデオ監督一本でやってきてますけど、性の現場に関わっていると、毎回新しい発見があるわけで、面白かったんですよね。オスですからメスに興味があるし、メスの本心、本音、生態に関して、もっと知りたくなる。「どうしたら女はイクんだろう」とか「オーガズムって何だろう」とか、男として素朴な興味を追求し、映像化してきましたから。
■ 同意します。それまでのアダルト作品は、そういう追求はなかったと?
Y: ピンク映画の時代からずっと、男が作った台本に合わせて女がイク演技するだけでしたから。僕が撮った『ザ・オナニー』シリーズ(1982年~)、あれで僕は初めて演技じゃない、女のイク姿を映像に収めたと思ってます。プライベートでは見たことはあるよ(笑)。でも女が現場で、目の前で、演技じゃなくイクというのは、僕も観る人達も初めてだった。
『ドキュメント ザ・オナニー PART-1』
© アテナ映像
出演: 斉藤京子
|
で、僕のビデオが当時の東洋現像(現・イマジカ)の技術で、ビデオを逆にフィルムにして映画館で流した初の例になったんです。すると映画館にお客さんが入りきらないくらい、大ヒットになった。そのビデオの撮影は、現場でもみんな反応してました。監督の僕も、録音部(音響スタッフ)なんかも、みんな興奮して、勃ってましたから。
■ 本物が持つ魅力ですよね。ただ、AVの主流は、あくまで演技としてのセックスなりイク姿なりを見せるもので、それは当時も今も変わっていないように思いますが?