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■ 7月31日から8月30日にかけて、郷土料理をフィーチャーします







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編集余談

8月15日は終戦記念日。ということで、今これを書いている現時点ではまだよくわからないんですが、おそらくテレビや新聞上にて(もしかするとネット上でも)先の大戦に関する番組や特集が、例年通り、幅を利かせているのではないでしょうか。そうでもないのかな。

私個人で言えば、戦争について語ろうとは思いません。だって昭和50年代の生まれですから、そもそも戦争に行ったことがないし、従軍経験もない。日常生活を営むにおいて(つまり生活者を全うするにおいて)戦争を語る必要性を感じたことなど、これまでただの一度もないからです。そのこと自体は物凄くありがたいことだと思っています。

「近代国民国家の歴史と戦争は切っても切れないものである。国民国家の成員である以上、我々は一人ひとりがそれぞれ戦争というイシューについて考え、備えておかなくてはならない。そのためには折に触れて戦争について語ることが肝要である。戦争について何ら意見を有さないというのは、平和ボケの好例に他ならない」。こう熱く語る人が、たまにいます。

でもそれ、ホントなんですかね。

私が平和ボケか否かは判断が難しいところですが(そもそも「平和ボケ」の対義語って何なんでしょう?)、少なくとも日本に住む多くの人は戦争について折に触れて語るなどしません。私の知人や家族も、戦争に行った経験などありませんから、私と同様、語りようがない(たぶん)。そしてそれをおかしいとは特に思いません。

戦争とは何か。畢竟、ケンカじゃないかと思います。なんだか気に入らねえ、話し合いじゃもう済まされねえ、悪いけど手が出ちまうぜ。ただし個人同士の水準ではなく、国家同士という水準でそうなってしまう。それが戦争ではないかと。

ケンカについて語るなども、私たちは日常、しませんよね。せいぜい、親しい知人との間に咲いた昔話の一環で「中学生の頃、先輩にボコボコにされてさ」とか「小学生のとき、オモチャの取り合いで殴り合いになったよな」とか話すくらいじゃないでしょうか。

まして、自分が当事者として関与していないケンカについて語るなどは、なかなかないでしょう。あるとすれば、たとえば「こないだ、うちのマンションの下に住んどる夫婦がさ、夜通し叫びながらケンカしとんねん。もううるさくて眠れへんかったわ」とか「先週、営業の宮下と竹ノ内と飲みに行ったんよ。そしたらさ、あいつらしょうもないことで取っ組み合いになって、店で大暴れしよんねん。ああいうの、どうにかならんかな」とか愚痴るくらいでしょうか。でもこういうのって、ケンカを語るというより、近況報告ですよね。

何が言いたいか。語る主体が戦争を知らない、戦争に行ったこともない、それなのに戦争を語るって「不自然」じゃないですかね、ということです。マス・メディアにしても、制作スタッフやコメンテーターの過半は、戦地に無理矢理駆り出されたこともなければ、従軍した経験もないでしょうに。

彼らにとって戦争は「アーカイヴ」のひとつに過ぎない。

それはそれで仕方ありません。誰にも責める権利はないでしょう。でもそんな「他人のフンドシ」だけで戦争は語られ得るものなのか。

ヴェトナム戦争に従軍した経験を持つアメリカ人作家、ティム・オブライエンの著書に『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳、文春文庫、1998年)という短編集があります。そこには、こんな文章が蔵されています。

「本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向に導かないし、高めもしない。(中略)また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じない方がいい。もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されているひどい大嘘の犠牲者になっているのである」
(同書、p117)

戦争だとかケンカだとか、そういうまがまがしい暴力的なものは、必要がなければできるだけ触れないでおく。その方がいいんじゃないか、と私は感じるのです。いや、仮に触れなくてはならないにしても、少なくともマス・メディア的な語法や文体で軽々にいじっていいイシューではないのではないか、と。別に、規制する必要があるとまでは言いませんが。

そんなわけで、この時期の「戦争特集」も十中八九、目を通しません。ほどほどに冷房の効いた部屋で、あったかいレモンティーをすすりながら、ゆっくり好きな音楽を聴いたり、読書したりして過ごします。皆さんも暑さあたりにはお気をつけて。


(三坂陽平)