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■ 4月30日から5月30日にかけて、「アイス」をフィーチャーします。







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編集余談

さる5月5日は、国民の祝日「こどもの日」であった。だからなのかどうかは知らないが、この5日より後に、NHKでは「子供の声を聞こう」という試みを全国放送するという。NHKの広報曰く「5月、若い世代の声を聴き、スペシャルな放送で届けるプロジェクト『君の声が聴きたい』を大規模に展開します。子どもや若者の声を、特設サイトや1万人を対象にしたアンケート、取材を通して広く集め、その声に5月6日~14日までの9日間、40を超える番組で向き合い、子どもや若者の幸せについて考える試みです」とのこと。

なるほど。どうやら本国の公共放送局NHKのブレーンも、相当に追いつめられて脳が鈍していると見える。気の毒にというべきか、何というか。

この放送プロジェクトが、対象に擬されている子供ではなく、彼らの親世代に向けられたアピールであることは想像に難くない。NHKは国民に、受信料を払うよう催促する放送局であるが、そこには払う側からの「ちゃんと受信料を払うに価する番組を放送せぇ」というクレームが宿命的につきまとう。

現在のシルバー世代は、おおむね習慣的にテレビを観るから、NHKにとって問題視するに価しない。問題は今の子供の親世代である。この世代は、ネットの普及以降、頻繁に言われる「テレビ離れ」を体現してきた世代である。彼らはNHKの番組を観ない。地震が起きたとかで一時的に観ることはあっても、NHKの番組制作や報道に関する方針を首肯するなどは望むべくもない(個人的には、どんなに高給であっても就きたくない職業に、「NHKのカスタマーセンター」を挙げる)。

しかし、だからと言って「打つ手がない」と諦めていたのでは、受信料を徴収する面目が立たない。そこで彼らは「私達NHKは、あなたのお子さんの声もちゃんと聞きますよ」というポーズを採用する。親や祖父母というのは、大抵子供に甘い。だから親世代を籠絡しようと思えば、まず子供からだと考える。杜甫の詩に曰く、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」。

と、これくらいのことは、少し気が利く中学生でも容易に推察できるだろう。

しかし、ここで私は敢えて、別の可能性を考えてみたい。

当今のマス・メディアは、なぜか知らん、かなりの割合で「アップデート」に執着する。ポップ・カルチャー(大衆文化)における、新しく、主流なもの。そこにキャッチアップすることが党是。そういう傾向が多分にある。

たとえば、Adoの「うっせぇわ」が若者の間で流行る。それを知れば、彼らはAdoも同曲も無批判に受容し、媚びる。あの歌を個人的に気に入らないというマスコミ関係者もいそうなものだが、彼らは表立って批判などせず、ただ黙してスルーするだけである。

「最新」に対する批判精神を持ち合わせていない。それが昨今のマス・メディアの宿痾であると、私は思う。

であれば、彼らは「子供の声」を過大評価せずにはいられまい。子供は流行に敏感で、流行の最先端にいる(と彼らは思い込んでいる)。その声にキャッチアップし、理解を示し、できれば迎合する。それが正義。そう信じる人達は、子供の生の声を放送することに無上の価値を見出すだろう。かくしてNHKは上記のプロジェクトの放送に至った。こういう推論も成り立たなくはない。

もちろん、この「最新」を絶対的正義と位置付ける価値観自体は、何も現代のマスコミに限ったものではない。これは進歩史観とかホイッグ史観と呼ばれるもので、19世紀の開国以降、日本で幅を利かせた考え方でもある。だから近代日本は、当時の最先端とされる欧米にキャッチアップすることをポリシーとして、猪突猛進したわけで。

つまるところ、アップデートを絶対とするマスコミの根幹思想そのものが2世紀前の古ぼけた考え方でしかないということである。「最新にキャッチアップすることが善である」という考え方自体が、最新から程遠いというか。

子供の声を聞くなどは、親や保護者がすればいいことで、公共放送の仕事ではない。公共放送とは文字通り公共(社会一般)に資するもので、子供は社会化される前の存在である。だから子供には、社会に馴致するための教育が必要なのだし、彼らは「社会人」とは見なされない。社会化される前の存在があげる声などは、社会にとって、何の意味も持たない。子供の声が大事というなら、生後間もない赤子の鳴き声を何時間か流してみればいい。

そういうことを「公共放送」が分かっていない。それを「脳が鈍している」と言っても、決して言い過ぎではないと愚考するのだが。


(三坂陽平)