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■ 12月31日から1月30日にかけて、「お菓子」をフィーチャーします。







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編集余談

今年(二〇二五)の一月二十三日、SMAPの元メンバー中居正広が芸能界を引退した。かねてより報じられてきた女性とのトラブルがどうにも処理できなくなった。それを受けてのことだろうと推測するのは、そんなに難しくない。私個人は彼とは面識がなく、彼の芸能活動についても、これといった利害関係はない。彼が引退しようがしまいが、私には損も得もない。被害者として報じられた女性とも面識はないから、つまりどこからどう見ても関係ない第三者である。その上で本稿を記す。

無関係である以上、本当に何があったのかは分からない。ただ、そういう遠い立場であるからこそ見えるものもある。それは、「中居正広という人は、自分のファンのためにのみ芸能活動を続けていたんだな」ということである。

彼の引退声明は、マスコミを通して一般に宛てられたものではない。あくまで自身のファンクラブ・サイトでひっそりと告げられたものである。つまり彼の引退宣言は、彼に貢ぐことをいとわないファンにのみ宛てられたクローズドな声明なのである。それをマスメディアがピックアップして一般に広まった。

中居は一九七二年、神奈川県に生まれた。いわゆる団塊ジュニア世代である。その後、八七年にジャニーズ事務所(当時)に入所、翌八八年に「SMAP」が結成され、その一員になった。つまり彼は十五歳で芸能界に足を踏み入れたわけである。三年後の九一年、中居が十九歳になる年にSMAPはメジャー・デビューを果たし、彼はそのリーダーの座におさまっていた。

同じSMAPの元メンバー木村拓哉と中居は同級生で、二〇〇二年末のテレビ番組『スマップ×スマップ』では、中居が高校卒業時のエピソードを語る一幕があった。いわく、学校の前にはファンがおしよせていて大変だったという。その後、自分の母親と木村とその親との四人で帰りにファミレスに寄って食事をしたとか、そういう他愛もない話だったと思う(それを横で聞いていた香取慎吾が「この二人ってこんなに仲良かったんだな」と茶化していた)。

今回報じられたのは、簡潔に言えば、フジテレビが自社の女性社員に、中居に対して「性接待」をさせ、そこで深刻なトラブルが生じたということである。それで中居やフジテレビの倫理観が問われるわけだが、フジテレビはともかく中居については、個人的にはこう思う。「そりゃ多感な十代後半の時期から女にキャーキャー言われるのが当たり前になっていたら、まともな女性観なんてなかなか育たないだろう」と。

コンサートや番組の公開収録などにファンが押しかけ、黄色い声援を送るのはまだ分かる。でも卒業式はタレントとしての仕事ではない、プライヴェートな領域じゃないのか。そこにファンが大挙するというのは、私からみれば完全に「プライヴァシーの侵害」であり、甚だしい迷惑行為である。でも中居も木村も、それを受忍して活動を続けてきた。それは「自分達の芸能活動は、支えてくれるファンに捧げるものである」と考えていたからではなかろうか? 芸能活動が単なる「賃仕事」だったら、目に余る迷惑行為を耐え続けるなどは到底できなかったろうと、個人的には思うから。

二〇一一年の東日本大震災や、二〇一六年の熊本地震のとき、彼は被災地に足を運び、炊き出しに参加した。それもやはり根底には「ファンのため」という滅私奉公的な思想があったからではなかろうか。東北や九州にも、SMAPを応援してくれるファンが大勢いる。SMAPのリーダーである中居にはそれがよく分かっていたはずである。だから窮地には、自ら足を運んでできるだけのことをした。

二〇一六年にSMAPは解散し、二〇年に中居は事務所を退所した。それからしばらくして、テレビ番組でキンキ・キッズ(当時)の堂本光一に対して中居はこう漏らした。あれだけいたファンの子達、みんないなくなっちゃったと。それを聞いて私は、「この人って、目に見えるファンしか相手にしてないのかな? カメラを通して彼を観ている視聴者は、彼の眼中にないのかな?」と訝ったが、おそらく中居のスタンスは一貫してそうだったのだと思う。

と、少し話を戻す。多感な十代後半の時期から女にキャーキャー言われるのが当たり前になっていたら、まともな女性観なんてなかなか育たないだろう。私はそう前述した。でもこれは別に中居に限った話ではない。ほとんどのジャニタレ(ジャニーズ所属のタレント)に言えることであろう。だからジャニタレには性的な醜聞が宿命的につきまとう。

何が言いたいのか、焦点が分からない。そう思われるかもしれないので、単刀直入に申し上げる。私は、ジャニタレ(の何人か)の人生が狂い、被害者まで出たその責任の一端は、ジャニオタ(ジャニタレのファンの総称)にもあるのではないかと言っているのである。

「ちょっと待って。たしかに迷惑行為をする度が過ぎたジャニオタもいることはいるよ。でもそういう人ばっかりってわけじゃない。普段は仕事とか家事に追われて、コンサートに行って『推し』を直接見るなんて年に一回、多くても二回くらいっていう穏やかなファンだっているんだから、十把一絡げに語って欲しくない」と反駁する向きもあるかもしれない。それはよく分かる。一口にファンといっても、そのあり方はさまざまだよなと。でも外部の人間には「度が過ぎたファン」と「そうでないファン」を腑分けする手立てがない。その線引きはどうやったら成立するのか? いいアイデアが私にはないし、誰もそんなメソッドを持ってはいないだろう。だったら、いささか乱暴であるとは思うけれど、十把一絡げにして論じるより仕方があるまい。

ファンとかオタクというのは、気楽なものである。「推し変」と称して、支持する矛先を気ままにころころ変えて、それでけらけらと笑っていられる。でも支持されるタレント側は、ファンに自らの人生を捧げるしかない。彼らには、ファンをころころ変えるという選択肢がない以上、そうせざるを得ない。そういういびつで不均衡な関係をベースに人生を構築すれば、人生が何かの拍子に傾き、狂うことも十分あり得るだろう。タレントも、ファンも。

中居正広やフジテレビの所業は、しっかり明るみに出して断じるのが筋だとは思う━━少なくとも被害者がそれを望む限りは。ただ、それはそれとして、中居の人生が狂った、それを彼の自業自得だとする意見は、私は首肯できない。何度も言うが、彼が自分の人生をファンに捧げてきたのは間違いないわけで、それなら彼の人生が狂った一因は、彼の人生を貪り、糧にしてきたジャニオタでもあるんじゃないか。そう考えてもおかしくはないだろう。

タレントは、オタクやファンのおもちゃではない。あなたや私と同じ、生きた人間なのである。身体の中ではどくんどくんと脈を打ち、呼吸もすれば排泄もする、生身の人間である。そりゃ「推し活」をするのは個人の自由かもしれない。しかし、その「推し」が生身の人間であることは忘れてはいけないのではないか? 生身の人をオタクやファンの勝手な都合で「推す」以上、その対象に対してそれなりの責任を負うのが、人と人との関係のしかるべきあり方じゃないのか? 中居やフジテレビの倫理観や責任が問われて、ファンやオタクの倫理観や責任は問われないなんて、そんな都合のいい話があるのか?

問われているのはそのあたりでもあろう、と私は思うのだけど。


(三坂陽平)