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■ 9月30日から10月30日にかけて、「郷土料理」をフィーチャーします。







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編集余談

無性愛者。この言葉を最初に知ったとき、私のあまり上出来ではないアタマはショートした。異性愛者なら、異性を愛する人である。同性愛者なら、同性に対して恋愛感情を抱く人。その流れで行けば、無性愛者は「セクシュアリティに相当しない部分」に嗜癖する人を指すはずである。

この解釈は当たらずとも遠からず━━なのか。無性愛者とは、男性にも女性にも愛欲が湧かない人のことらしい。端的に言えば「性的欲求が身体に備わっていない人」である。ここ十年くらいで、自分は無性愛者だと公表する人が増えた。つまり、無性愛者とは比較的新しめの造語なのである。

昨今の日本人の造語の方向性についていけない。無性愛者がどうというより、まずそう思ってしまう。

そういえば「認知症」もそうだった。痴呆という言葉には侮蔑的なニュアンスがありそうだから、これからは認知症と呼ぼう。どこかの誰かがそう決めた。おいおい、認知障害なら分かるけど認知症ってなんだ。生物学者の池田清彦は「認知症という言葉を作ったやつが認知症だ」と言っていた。

閑話休題。その実態に則して私なりに造語するなら、無性愛者というのは「性欲障害者」や「無性欲者」と表すのが妥当なはずである。まぁ「性欲障害者」は当人達が不快に思うかも知れない。たまたま性欲がないだけで障害者呼ばわりされる筋合いはない、と。そういうアティテュードが既に障害者を差別しているわけだけれど、クレーマーというのは「自分が正しい」と信じて疑わない夜郎自大な人が多いから、きっと馬耳東風だろうな。

さて、その自称「無性愛者」達に対して、私は特に「性欲がないなんて変だ」などを言い立てるつもりはない。ああ、そうなんだ。それで終わり。私は異性愛者というか、まぁ明確に女好きではあるけれど、そういうありようを普遍化する気もない。人はそれぞれなんだから、女に欲情しようが、男に欲情しようが、欲情そのものが発生しなかろうが、別にいいじゃないのと思う。

ただ、いささか引っかかった点もある。その自称「無性愛者」達は、いずれも家族に対しての愛情はそれぞれにしっかり持っている。そういう記述が、無性愛者に関する記事のいくつかにあったことである。

そこで私は、こういう乱暴な仮説を立てる。自称「無性愛者」達というのは、実のところファザコンやマザコンから派生したものではないのかと。

子供の中には「優等生」的な子供がいる。学校や塾の成績が優れているというのではない。周りをよく見て、自分がどういう振る舞いをすればどう受け止められるかを常に考え、周囲の大人や友達に極力迷惑をかけない。そういうありようを当然とする子供のことである。多くの場合、彼ら(彼女ら)は大人から「手がかからない子」とか「おとなしい子」と評される。

で、優等生とはご承知のように、自由が苦手である。優等生は「自由課題」や「自由学習」となると、何をしていいのか分からなくて途方に暮れる。そして「こういうふうにすればいいのか」の見本(ロールモデル)を手近に探して、それをできるだけ忠実になぞる。平たく言えば、優等生な子供は「マニュアル小僧」なのである。もし「自由とはこういうことですよ」を細大漏らさず示す説明書があれば、彼らはそれを一心不乱に熟読するだろう。

自由が苦手な彼ら(彼女ら)は、長じても自由恋愛に向かない。いったい自分はどういう相手とどういう付き合いをして、どうなっていきたいのか。それが全然分からない。だから自由恋愛に踏み出さない。積極的に踏み出す必然が、当人の中にない。まぁこれも大人になるためのステップだと自らに言い聞かせ恋愛に踏み出してみても、早晩、精神的なデッドエンドに陥って、付き合いを解消してしまう。そういう彼ら(彼女ら)を優しくフォローしてくれるのは、せいぜい父親とか母親くらいであろう。だから彼ら(彼女ら)は容易にファザコンやマザコンになる。

優等生的な人にファザコンやマザコンが多いとは、こういうことではないかと思う。そして、そういう人はどこにでもいる。そのうちのいくらかが「無性愛者」を標榜したとしても、そんなにおかしくはないだろう。あまり上出来ではないアタマでそう愚考した次第である。

もちろん、自称「無性愛者」の中には、そこまで親にべったりじゃないという人もいるかも知れない。個別のケースに関しては、私は知らない。私の推論はあくまで総論としてのものであって、各論ではない。そのことを断っておく。ただ私は、彼ら(彼女ら)の「家族愛はちゃんとあるんです」アピールに若干の不自然さを感じただけである。家族愛があるとかないとか、そういうのって自分から殊更に言うようなことじゃないと思うんだけど。


(三坂陽平)