編集余談
歳を重ねると「それが何を意味するか」が変わることがある。と、こういう言い方では分かりにくい人もいるだろうから、喩えを出そう。たとえば幼い男の子にとって、仮面ライダーは「ヒーロー」であり得る。しかし成人した男性にとって仮面ライダーは、せいぜい「ガキ向けのコンテンツ」でしかない。これが更に齢を重ねて年金受給世代になると、「昔流行っていたもの」になるはずである。
仮面ライダーは仮面ライダーである。宇宙刑事シャリバンでもないし月光仮面でもない。それは単なる事実として、あくまで一つの固有名詞としてただそうであるだけなのだが、その「仮面ライダー」が何を意味するかは、そのときの立場や環境によって変わってくるし、属する世代(年齢)によっても変わってくる。私が冒頭で言ったのは、そういうことである。
このへんでご賢察の方もおられよう。今回は「アラフォーになって込み上げてきた感慨」をテーマに文章を進めるつもりである。
話はいったん九〇年代後半まで遡る。
当時私は中学生だった。で、詳細は割愛するが、三学年ほど上の女性に片恋をしていた。そうなると必然的に下級生の女子はガキだとしか思えなくなるもので、しかし彼女からすれば私もそのガキでしかないというどうしようもなさが当時の自分にはあったと思う。
そういう具合に中学生の私の心は、その高校生の女子に傾いていたわけだが、卒業して高校に進学すると、この「高校生」は、あっという間に「同級生」になってしまう。そこでどうなったかというと、おそらく年上好きの多くがそうであるように、今度は大学生とか二十代の「おねえさん」とより親しくなっていくわけですね。そうかといって、同い年の女子と付き合いがなかったとかでは全然ないんですけども。
何を書いてるんだ俺は?
この調子でぐだぐだと思い出話を続けてもしょうがないので、話の矛先を少しずらす。
森高千里に「私がオバさんになっても」という曲がある。九二年の発売当時は目立ったヒットは見せなかったが、長い時間をかけてじわじわ人口に膾炙し、彼女の代表曲と目されるほどの知名度を得た楽曲である。聴いたことがある、唄ったことがあるという人も多かろう。
彼女自身が作詞を手がけたこの曲では、「女ざかり」は十九歳だと唄われる。二〇二〇年代の当今では「女ざかり」という言葉を公に出しただけで袋叩きに遭いそうな気もするが(剣呑な世の中になったものである)当時はなんてことはなくて、森高は清涼感のある声ではつらつとそう唄った。ちなみにリリース当時、彼女は二十代前半の未婚女性であり、九九年に結婚する相手=江口洋介とはまだ面識もなかった。
私はこの曲に深く感銘を受けたとかはなかった(と思う)のだが、十九歳前後の女性というのはたしかに形容しがたい魅力をまとう。その魅力が何なのか、何に由来するのかはよく分からないけれど、自身の経験からしても、そのへんの歳を「女ざかり」と位置づけるのは、まぁ妥当ではあろうなと得心できた。
ところが四十代になって、この「十九歳前後の女性」が魅力的に思えないことが多くなってきた。
もちろんすべての女性が十九歳前後になればきらきらと輝く素晴らしい存在になるということはないだろう。十年前(二〇一五年)の春先に、当時薬学部に通っていた女子とデートしたことがあったけれど、彼女と過ごしていると、空気を相手にしているような退屈さ、索漠さを感じずにはいられなかった。一緒に観た映画『ベイマックス』の面白くなさも手伝って、あのデートはお世辞にも「良い思い出」とは呼べない記憶になっている(まぁこれは一方的な話で、ともすれば先方側も私に対して似た感想を抱いたかもしれないのだが)。
しかしそもそも私からデートに誘ったくらいであるからして、当時の彼女の、少なくとも外面にはそれなりの魅力が宿っていたのだと思う。ところが現今になると、その歳頃の女子を見ても概して積極的に関係を持ちたいとは思えなくなっている。彼女達のルックスや喋り方、立ち居振る舞いがどうであれ、そうそう心惹かれないのである(もちろん例外もあるといえばあるのだけど、あくまで「概して言えば」ということです)。
これは私が四十代になったからなのか、それとも今の若い女性が昔の同じ歳頃の女性と比べて総体的に魅力的でなくなっているのか、あるいは一時的な気の迷走なのか、私には分からない。でも間違いなく、今と昔では「十九歳前後の女性」が意味するところは大きく異なっている。少なくとも私にとっては。
そういえば森高は先の曲で「あなた」は「若い子が好き」とも唄っていたが、果たしてこの「あなた」は歳を重ねてもそうだったのだろうか?
(三坂陽平)