編集余談
先日、用事があってモノレールに乗っていたら、私の前に小学三年生くらいの女子が座った。江戸川コナン的な眼鏡をかけた彼女は、座るとこくりこくりと居眠りをするでもなく、カバンからおもむろにタブレットとタッチペンを取り出して、右手だけでさっささっさと(液晶画面上で)数字を書いたりスワイプしたりしてみせた。あれが宿題なのか自主学習なのかは私には分からない。ただ彼女の慣れた鮮やかな手つきをそれとなく見ていたら、彼女と私の間には結構大きくて深い隔たりがあるのかもしれないな、とぼんやり思った。たぶんこの子には、ノートの貸し借りなんて概念はそもそもないんだろうな、とか。
「なんの話なんだ」と思う人もいるだろうが、今回は世代間の隔たり、いわゆるジェネレーション・ギャップを話の切り口にしているのである。
あらかじめ断っておくと、私は大阪府に住む八三年度生まれの四十男で、今のところ子供はいない。だから二十一世紀に入ってからの義務教育となると、とんと縁のない「どこか遠い世界のもの」という感じになってしまうわけだが、もちろんそれは「遠い世界のもの」ではない。日本社会の根幹を形づくる重要な要素として、義務教育は今も私の近くにあるはずである━━タブレット端末を携帯する小学生と同じくらい近くに。
そういう私が仄聞して意外に思ったのは、近年の小学校では性教育がほとんど行われていない、あるいはあってもなおざりになっているということである。「おい、そんなんで大丈夫なのかよ」と、子供がいない身ながら心配に思うので、ここではこの話を進めたい。
私を含めた八三年度生まれの子供が小学校に籍を置いていたのは、一九九〇~九六年。当時大阪北部のしがない公立小学校で受けた公教育が、私にとっての「教育」である。というより、それ以外の教育なんて(教育関係者でもない身には)知る由もない。
私が小学生の頃、学校内に「パソコン室」と呼ばれる、パソコンが十数台ほど設置された教室があった。当時パソコンは一台何十万円もする高価な電化製品で、子供がそうそう気軽に触れられるものではなかったのである。で、そのパソコン室に児童を集めて、当校の性教育は行われた。科目はよく覚えていないけど、たしか「体育」か「家庭科」のどちらかだったと思う。そこで男性器、女性器の解剖図や、子宮内での受精の仕組み、性病(性感染症)の種類、または避妊のための方途などを、主に図解を用いた形で教わった。
長じてから知ったことだが、九〇年代前半の世間では、性教育の機運が一時的に高まった。私の小学生時代はたまたまそこに当たったらしい。しかし、その機運はやがてしぼんで行き、衰微した。おそらく、八〇年代の序盤にエイズが発見されたことを受けて、当時の大人は「エイズやその他の性病の拡大を防ぐには、子供への正しい性教育が肝腎だ」と考えたのだろう。でも喉元過ぎれば何とやらで、そういう熱量は社会全体から次第に失せていった。そういうことがあったのではないかと、現代の私は思う。
どうして性教育の熱は下火になったのだろう? 九〇年代に子供だった私には推量するしかないが、おそらく教育者にとって性教育は存外に難事だったからではなかろうか。
というのも、性教育とは、突き詰めて言えば「セックスにまつわるいろいろなこと」を学習することである。でも性教育の授業では、じゃあ実際にセックスとはどのようなものか、見てみましょうとはならないからである。
「見る」とか「実際に体験する」ということは、学習において極めて重要である。このことに異論を挟む人は、おそらくそんなにいないだろう。体育なら、たとえば走り幅飛びが実際にどのようなものか、教師が実演してみせることができる。家庭科であれば、たとえばミシンをどのように使うのかなど、使い方を教師が教壇上で生徒に見せてやることができる。もしなんらかの事情で実演ができないとしても、教室で映像を流すなどして視覚的に教示することは十分可能だろう。その視覚的情報をもとに、児童達は自分なりに(走り幅跳びやら裁縫やらを)再演して、「ああ、こういうものか」と体得する。
ところが性教育では、実際のセックスを見ることも体験することもできない。性教育の授業で「じゃあ次の授業では、男の先生と女の先生がセックスを実演するから、しっかり見ていなさい」となるだろうか? 先ずならないだろう。あるいは、性教育の一環としてAVなり成人向け映像なりを流すことはできるだろうか? これもやはり無理だろう。そうかと言って、「実際のセックスについては、各自お父さんやお母さんのそれを参考にして下さい」と丸投げするなども(やはり)できないだろう。つまり小中学校における性教育は、実際を伴わず観念的な説明をさらっとこなして終わるしかない。それが子供達の身に沁みるか沁みないか。このあたりが性教育の困難であろうと私は思う。
性教育とは「セックスにまつわるいろいろなこと」を学習することである、と前述した。では私達の社会はセックスをどのように位置づけているのか? 実はこれに関するコンセンサスはない。ある人はセックスを「不潔」とするし、別の人はセックスを「自然な営み」という。あんまりオープンにするものではないよねという認識はある程度社会に共有されているけれど、生きている以上いつまでも蓋をしておけるものではないという認識もまた広範にある。つまりセックスとは「よく分からないけれど大事なもの」なのであり、そのあたりが言外に子供に伝われば、性教育は十分に成功ではないかと、個人的には思うのだけれど。
(三坂陽平)