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■ 2月28日から3月30日にかけて、近代文学をフィーチャーします







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編集余談

前回、2018年に起きた大阪北部地震について触れた。そこでは地震の衝撃で小学校のブロック塀が崩落し、その下敷きになった小学生女児が落命するという痛ましい事故も起きた。今回は、その後、大阪北部の小学校のブロック塀はどうなったかに端を発する話である。

まず、地震直後には、北摂(大阪北部)の━━少なくとも私の生活圏内の━━小中学校から不必要に高いブロック塀が撤去された。ドリル音を響かせ、工人達はブロック塀を事務的に手際よく壊した。やがてブロック塀の代わりに白いステンレス製のフェンスが立てられ、外路を通行する部外者からは学校のなかが見えないようになった。これが現状である。

崩落事故を受け、不必要な高さを持つブロック塀を、危険だからと撤去する。そこまではわかるが、なんだって白いフェンスをわざわざ大々的に設置して、校内を見えなくしなくてはならないのか? 北摂の学校教育では、そんなに世間に対してひた隠しにしなくてはいけないことが行なわれているのか?

おそらく一部のブレーンレスな保護者が、外を歩く変質者から学童を見えないようにしろと教育機関にクレームをつけたか、そういうクレームを事前に斟酌した役所が講じた措置なのであろう。それくらいは容易に察しがつく。でも、そんなことをして一体何になるのだろう?

はっきり言うのだけど、小中学生に邪な興味を抱く通行人など、100人大人がいれば、そこに1人いるかいないかくらいだろう。つまり1%以下。大多数の大人は、学校ではしゃぐ子供達に対して、元気だな、可愛いなと思うだけで通り過ぎて行く。大人にはそれぞれに生活があり、それぞれのタスクがある。そうでなければ社会は回らず、そうであるがゆえに子供達のキャッキャウフフに構ってばかりもいられない。

つまり、小中学生に邪念を抱く変質者は、ほとんどいないと言っていい。この「ほとんどない」を前提にした対策というのは、往々にして奇怪なものとして終わる。地球に巨大隕石が落ちてきたらどうするかを前提に設計された社会があれば、それは私達の目には極度に奇矯なものとして映るだろう。

だいたい、そういう変質者なら、自分の欲望のためとあらばフェンスなどものともしないだろう。北摂の学校の周りには、マンションも雑居ビルも乱立している。変質者がそこに何食わない顔で侵入し、望遠レンズを搭載したカメラを学校に向けて屋上かどこかにセットしておけば、彼らの「のぞき欲」は容易に満たされ得る。で、こののぞき行為は、おそらく高確率でバレない。なぜなら上述のように「大人にはそれぞれに生活があり、それぞれのタスクがある」から、変質者にも「構っていられない」のである。

新たに立てられたフェンスは、変質者対策としては極めて無意味。それは証明した。しかし今回の本題はそれではない。この「大阪北部のノータリンな教育施策」は、当の子供達にどんな影響を与えるのか━━話はこれである。

新たに立てられた白いフェンスは、当然、その学校に通う子供達が毎日毎日、目にすることになるものである。学校に通う限り、彼らはそれを無意識にでも繰り返し視界に入れ、認識する。

やがて、フェンスの存在は、彼らにこういうことを暗に伝える━━「大人とか世間というのは、どうやらいかがわしい目で自分達を見るものらしい」。そうでなければ、白いフェンスの意味は成り立たない。そびえ立ち、内部と外部を視覚的に遮断する白いフェンスは、上記のテーゼがあって初めてその存在意義を持つ。

それは児童━━少なくとも一部の児童━━の無意識に、こういうことも伝えるはずである。「大人とは、子供をいかがわしい目で見るものである」。論理的にはこうなる。

子供達はそれを意識的には把握しない。あくまで無意識に、サブリミナル的に刷り込まれる形で、この「大人=子供をいかがわしい目で見るもの」は、子供達の形成途中の人格に(不可分的に)組み込まれていく。

そこから何が生まれるか? 2つ考えられる。1つは、大人と子供が(根拠もなく)分断される。もう1つは、当の子供達が長じたとき、彼ら自身が「子供をいかがわしい目で見る大人」になるだろうということである。彼らの一部がそうなるのは、避けがたいように思う。彼らの意識下には「大人=子供をいかがわしい目で見るもの」が強固にこびり付いているのだから。

そんな「将来の変質者候補生」を生み出すことが懸念される施策に何の価値があるのか、誰か教えてくれないか?


(三坂陽平)