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■ 2月28日から3月30日にかけて、「八〇年代のアニメ映画」をフィーチャーいたします。







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編集余談

いささか旧聞に属するところであろうが、過日、私と同世代(三十代後半)の経済学者による「老人が集団自決しなくては社会の高齢問題は解決しない」という旨の発言が、世間でたいへん物議を醸した。ここでその発言自体を、擁護したり糾弾したりはしない。どちらも既に世間に出尽くした感があろう。私が注目するのは、なぜこの発言が物議を醸したか、その背景である。

「物議を醸した」とは、それなりの規模で「賛否両論が起こった」ということである。上記の発言が、ポリティカリー・インコレクト(政治的に不適切)であることは誰でも━━たぶん小学生でも━━分かるだろう。本音のところではともかく、公的な場(たとえば学校の式典など)で述べてしかるべき修辞ではないよなと。つまりかの発言は、公において、満場一致で「否」とされておかしくない案件なのである。ところがそれは「物議を醸した」。ということは、かの発言を擁護する向きが結構あったと見ていいのではなかろうか。

先の発言を擁護する人がそれなりにいたということは、社会に「たとえ政治的にインコレクトであったとしても、老人が邪魔だから排斥したい」という意向が、存外に多く潜在したことを意味する。ちなみに、老人が邪険にされる風潮は、戦後の日本ではそんなに珍しくもない。橋本治が『最後の「ああでもなくこうでもなく」━━そして、時代は続いて行く』で著していたが、七〇年代にはもう「病院以外に行く場所がない老人」が大勢いた。つまり当今の老人も、若い時分には老人を邪険にしていたフシがあるのである。

日々のあちらこちらで、老人はしばしば邪魔になる。もちろん程度はケース・バイ・ケースだし、頼りになる老人だっていなくはない。個人的には、若者も壮年も群れたら十分邪魔になりうると思う。しかし「集団自決」という不穏な措辞が支持を集めるほど、世間には老人への憎悪が瀰漫しているのか?

そう訝って、一つ思い当たるのは「コロナ禍」である。もしかしたら「コロナ禍」が世間の「老人への憎悪」を増幅させたということはないだろうかと。

二〇二〇年に「コロナ禍」が始まった時点で、新型コロナウイルスに感染して重症化するのは、高齢者か持病持ちの人であるとされていた。もちろん実際は人によりけりで、十代の若者でも重症化する場合もあるし、高齢でも無症状で済むこともあるのだが、大まかに言えば、五十歳以下の人にはそんなに大した影響はないだろう。概してそう見られていたと思う。しかし「コロナ禍」は、その五十歳以下の人達に、相当な負担をかけていく。

二〇年二月末、当時の首相の独断専行で、全国の小中高学校に一斉休校措置がとられた。この時点で全国に感染が広がっていたわけではない。関東や関西、北海道では感染者が確認されたが、感染者がいない県のほうが多かった。一斉に休校することはない、するなら感染者が確認された地域の学校だけを限定的に休校にすればいいという意見も多く出た。しかし当時既に「老人」であった安倍晋三首相は、全国一斉休校を断行した。

そしてここから、学生達の本格的な受難の日々が始まる。

学校は再開される目処が立たない。卒業式や入学式は中止。新入生歓迎会も遠足も修学旅行も学園祭も運動会も、主だった学校行事は全面的にカットされ、対面形式での授業さえままならない。クラスメイトや友達とも遊べない。学生達はひたすら「自粛」と蟄居を余儀なくされた。翌二一年二月、文部科学省は二〇年内の小中高生の自殺件数が「過去最多」であったことを報告する。

ようやく学校が再開されても、学生達は常時マスク着用を義務づけられ、食事の際も沈黙を強いられた。学校行事はおおむね中止のまま。こうした状態が、二〇~二一年の二年間ほど続いた。翌二二年にはいくらか緩和されたものの、依然として学生達は多くの局面で我慢を強いられていた。

彼らに我慢を強いるために用いられた大義名分は「皆さんの周りにいるご家族や、大切な人を守るために」だった。ヒューマニズムを人質にとっての恫喝と言うべきか。実際には、高齢者の中にも「若い人に迷惑をかけたくない、自分達に気なんか遣わないでほしい」という人もいたと思うが、そういう意向は黙殺された。学生達は、高齢世代と一部の持病持ちの人々の健康を守るために、長期間にわたり、多大な忍耐と喪失を課せられた。学生だけではない。二十代から四十代の大人でも、実感はだいたい同じだろう。この世代にとって、新型コロナウイルスは(概して)致死的な害毒ではなかったはずである。

しかし五十歳以上の人達は、若年層のそういった犠牲を当たり前のものとして流し、若い世代に感謝も詫びも一向に述べなかった。少なくとも私は、五十歳以上の著名人(政治家なり有識者なりタレントなり)が、若年層が黙々と払い続けた犠牲に対し、謝意を表明したという例を、寡聞にして知らない。

もちろん個別にはいろんな例があったろう。孫に「お婆ちゃんのために、レイちゃんもしんどいやろね、すまないねぇ」と詫びた高齢者だっているかもしれないし、心から「自分達の軽率なふるまいでお爺ちゃん、お婆ちゃんを苦しめたくない」と思った若年者だっていると思う。

ただ、一方で「なんであんな老人達のために、自分らがこんな我慢し続けにゃならんのだ」と不満を募らせた人も(マクロで見れば)多くいるはずである。こういったフラストレーションを鎮定するために、誰かが「高齢世代と一部の持病持ちの人々」を代表し、若年世代が払い続けた犠牲を総体的に慰める必要があったのではなかろうか。でも実際は誰もそれをしなかった。それをしたほうがいいという発想さえ持たなかった。だから「老人への憎悪」が世間に蔓延したのではないか? これが杞憂に過ぎないことを願うばかりだが。


(三坂陽平)