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編集余談

2020年9月7日、北海道-大阪間を航空していたピーチ旅客機内で、乗客の男が「マスクを着けない」ことに端を発したトラブルが発生。客室乗務員が男に軽傷を負わされ、業務上、問題があるとして、同機はその男を新潟空港に降ろすことを決定。2時間以上の遅延が発生した。また同月には、北海道エアシステムの飛行機内で、やはり乗客の男がマスク着用を拒否し、安全阻害に当たるとして離陸前に降ろされている。

今年、2021年1月16日には、東京で旧センター試験を受験した49歳の男が鼻を出す形でマスクは着用。試験官が何度注意しても修正に応じず、会場から退去するよう命じられた。理由は、安全に試験を運営できないからだという。男は命令を拒み、建造物不退去容疑で現行犯逮捕。当然、その成績は無効扱いとなった。

いずれも犯人が男である点が興味深いが、そこは(今回は)スルーする。個人的には、どの件についても処置は妥当だったと思う。私が現場にいたら、犯人に対して殺意すら覚えることは想像に難くない。「こちとら忙しいのに、独善的な動機で起こす必然性のない余計なトラブル起こしてんじゃねぇよ、タコ」くらいは思うはずである。たぶん現場に居合わせた人達も、多くはそう思ったはずで、だから現場の対応に物申すつもりは毛頭ないし、犯人に同情する余地とて微塵もない。

しかし、犯人達のアクトを「安全上問題がある」とするのには、私はいささか疑問を覚える。それは本当に「安全」上の問題なのか? と。

今更私が言うまでもないが、サージカル・マスクだろうと布マスクだろうと、それを着けていればウイルスに感染しない、大丈夫だ、というものではない。本日も何百人、何千人という人が、PCR検査で陽性と判断され、新型コロナウイルスに感染したと発表されている(だろう)が、じゃあ彼らは皆、日常においてマスクをしていなかったのか? 私にはそうは思えない。私が住む大阪北部の町を見渡せば、9割の人はマスクを着けている。それなら、陽性反応が出た人達もその9割は日常的にマスクをしていたのではないか。

にもかかわらず、彼らは感染し、そのうち4千人以上が既に落命したという。謹んでご冥福をお祈り申し上げる。

神戸大学で教授職に就いている感染症内科医師、岩田健太郎は、昨春、以下のツイートを投稿している。

「マスクだの、手指消毒だの、その他諸々の感染対策は、『集団』という条件があるかぎりは焼け石に水」(2020年4月27日13時42分)

つまり、マスクや手指の消毒よりも「3密」を回避することが、感染防止には重要なのである。岩田のつぶやきから推測すればそうなる。だから2020年の流行語大賞には、「3密」が選ばれたのであろう。言い換えれば、屋内でも十分に換気できていて、2mほどの対人距離が常時キープできていれば、それはマスク着用や手指消毒より、多分に「安全性」に資する。そんなことは航空会社や大学入試センターとてわかっているはずで、現場では換気や対人距離の確保に努めていたはずである。

それでも、距離を詰めなければならないシーンだってある。客室乗務員が乗客に接するとき、あるいは、試験官が受験生の不正を見張ったりするときには、2mほど距離を置くことが難しくもなるだろう。それで「マスク着用」が推奨されたりもするが、それは必ずしも「安全」を保証はしない。そのことは先に述べた。あくまでも「マスク着用」は、周りの人が「安心」するという効果を見込んだ措置であろうと私は思う。手洗いやうがいは、他人がしているかどうかはわからない。その点、マスク着用は、ヴィジュアル一発で「感染対策しています」感が出ていて、わかりやすい。

しかし、安全と安心は違う。概して言えば、安全は数値的に示すことができるが、安心は心のありようの問題である。つまり、数値でどれだけ安全を証明しても不安な人は不安だし、どれだけ危険でも安心という人は安心なのである。高所恐怖症の人に、どれだけ高層建築物の安全性を説いても、彼らは「じゃあ安心だ」とは言わないだろう。

私は「安心」を軽んじるつもりはない。それが社会で短期的に機能することは進んで認める。しかし、長期的には「安心」は「慢心」と同義的であったりもする。だから日本では、多くの人が「マスクしてればいいんでしょ」になり、その結果、感染拡大が何度も起こり、経済はゆっくりと疲弊し、巷間の空気は暗くなった。その最大の要因は、人々が「安全と安心は違う」を自覚していないことだと私は愚考しますけどね。


(三坂陽平)