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■ 5月31日から6月29日にかけて、「エッセイ」をフィーチャーします。







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杉本の包丁
魚河岸、市場の時代を経て今も

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当サイト向けに記事を書き続けて十数年が経ちます。自分のことながら「そんなになるのか」と呆けてしまいそうになりますが、これだけ書いていると記事の中には「これは全面的に書き直した方がいいだろうな」と思うものもちらほら出てきます。理由はまちまちです。文章的に未熟さ(あるいは出来の悪さ)が目立つからということもあるし、当時書いた内容が現在の実情と大きく乖離しているからということもあります。ケース・バイ・ケース。

この原稿もそういう「昔書いた記事をリタッチしたもの」であるわけですが、書き直した理由は、誰がなんと言おうと(誰もなにも言わないでしょうけど)後者です。表題にある杉本の所在地は東京の築地なんですが、元になった記事を公開した当時の築地は、関東育ちなら誰でも名前くらいは聞いたことがあるだろうというくらい、高名な市場でした。だからそのことを織り込んだ文章を書いたわけですけれど、それからしばらくして市場は築地から豊洲へと移転しました。いわゆる「豊洲問題」を抱えながら。移転自体が良いのか悪いのかは分かりません。でも取り敢えず今は(望む望まずにかかわらず)市場移転後であるわけですから、そういう現状を踏まえた記事に書き換えた方がいいよなと思った次第です。

元の記事が公開されたのは二〇一六年一月。SMAP解散報道が世間を賑わせていた頃です。この年の暮れには『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマがヒットし、主演の星野源が唄った「恋」も年末から翌年始にかけてヒットしました。当時の元号はまだ「平成」だったし、米大統領はバラク・オバマが務めていて、ドナルド・トランプが大統領選を制する未来などほとんどの人が想像もしていなかった。よく「十年一昔」と言いますけど、たしかになんだか存外に遠い世界のことみたいに思えますね。

二〇一六年当時と二〇二五年現在にはこれほどの隔絶があるわけで、それならその差異に応じての記事の書き直しも、万やむを得ないところです。

そんなわけで、本題。


杉本 中華包丁 1号

型番:4001
刃渡り:220 x 95 mm
価格:税込43,000円


まず杉本とは何かといいますと、築地で包丁を鍛造、販売する組織です。二〇二五年の現時点で彼らが商っている包丁は中華包丁、日本包丁、そして洋包丁の三種類。杉本の公式サイトでも書かれているように、その歴史は江戸時代の天保年間(だいたい江戸時代末期ですね)に端を発するようです。その時代に活躍した刀鍛冶が、杉本の由来であると。

「おお、そんな昔から築地市場ってあったのか」と驚く向きもあるかもしれませんが、そういうわけではありません。いや、当時から「魚河岸」と呼ばれる商業集落が江戸(現在でいう東京)にあるにはあったのですが、それは厳密には「築地市場」ではなかった。

どういうことか分かりにくいかもしれませんので、順を追って説明しますね。元建設省官僚である竹村公太郎の著書にあるように、江戸幕府は「水に関する利権」を重視してきました。クルマも飛行機もない時代ですから、大量に物資を遠隔地に輸送するとなると、陸路ではなく海や河川などの水路を使うことになります。つまり水路を制することが商いを制することに繋がった。また人間が生きていく上で欠かせないのが食べ物で、その食べ物を作るには水が不可欠です。

かように水は人々の暮らしにおいて重要至極で、それゆえ江戸幕府は治水事業に力を注ぎました。で、先ほど述べたように、河川は商業の肝でもあるような場所だったんですね。だからこの時代(江戸時代のことです)には「河岸」と呼ばれる場所が「魚河岸」という商業集落として発展します。それは今で言うアウトレット・モールとかショッピング・モールみたいなものだったと推測されます。だからその一角で鍛冶屋が立ち上がってもいささかの不思議もないでしょう。これがおそらく杉本の起源なんだろうと思います。



築地市場

出典:2018 Tsukiji fish market.jpg
from the Japanese Wikipedia
(撮影:2018年10月)


築地市場のアドレスは東京都中央区で、江戸時代にも当地には魚河岸があったと伝えられます。それが一九二三年の関東大震災で一旦壊滅状態になり、紆余曲折あって当地で一九三五年に東京市中央卸売市場としてリスタートしたのが築地市場になります。それが二〇一八年、豊洲に移転するまで続いたと。

つまり杉本は、十九世紀、二十世紀、そして二十一世紀序盤と、東京都中央区で魚河岸や市場に、刀鍛冶を起点とする包丁屋として粛々とコミットしてきたわけです。彼らの包丁は、料理人からも定評があるといいますが、それもむべなるかなというキャリアではありましょう。もちろん本当に良い包丁かどうかというのは、ユーザー自身が自分の目なり手なりでしっかりチェックするのが大事だと思いますが。


築地の杉本刃物






 

グレステンの包丁
それと「科学」という思想への疑念