1994年公開の映画『とられてたまるか!?』の最大の売りは何か。やはり明石家さんまと武田鉄也が共演していることであろう。2019年現在においては、「おいおい、わざわざそんな年寄りフィーチャーせんでもよ」と、やや冷ややかな目で見られるかもしれない。しかし私たち世代(の多く)には大物2人の共演に思えるのではなかろうか。マスコミの力は凄まじい。
主役は武田鉄也扮する、お役所勤めの地方公務員、唯野一太郎。何十年というローンを組んで、念願のマイホーム(洋風の一軒家)を購入し、ふぅやれやれというところの中年男である。田中美佐子演じる奥さんと一男一女をもうけ、絵に描いたような中産階級の核家族を謳歌していた。
唯野のこの描写は、今なら「リア充」と呼ばれるかもしれない。しかし自分の記憶を辿ってみても、’90年代前半にはこういう家庭が本当に一般的だったのである。実際、私の当時の友人(小学生、男)も、お父さんが市役所に勤めていて、住宅街の一角に佇む洋風の一軒家(持ち家)に住んでいて、お姉ちゃんがいた。そして特にそれをどうとも思わなかった。
ある意味で「昭和の残滓」と言えるような様式かもしれない。でもそういった(家庭の)在り方や価値観が、まだドミナントな時代だったのである。
ただ、映画はもちろん、唯野家の幸福と憂いを映したホームビデオではない。事件が起こる。
ある日、彼の大事なマイホームに泥棒が侵入する。この泥棒がさんまである。彼の窃盗活動は、凡庸なセキュリティや警察をまんまと出し抜き、何度も続いた。いい加減にしろ、ふざけんじゃねぇ、と憤る唯野。けれど家族は、そんな翻弄される「お父さん」を冷ややかに見るほかない。
さんまは、飽くまでもゲストキャラであり、主役ではない。つまりW主演ではない。今からは想像もつかないかもしれないが、’90年代前半、当時のさんまは落ち目なキャラだったのである。お笑いならウッチャンナンチャンやダウンタウンやろ、さんまや紳助なんか古い古い、と時代は新しい波を迎えていたし、おまけにプライベートでは大竹しのぶとの離婚劇があった(1992年)。さんまが後々のような「日本のお笑い代表選手」に返り咲くのは、もう少し後のことである。
だからこの映画もさほどヒットしなかった。配給収入10億円未満。武田鉄也で言えば、同年に公開された映画『ヒーローインタビュー』の方が(彼はこの映画でヤクルト・スワローズの監督を演じた)、よほど売れたわけである。
さて、やがて頭にきた唯野は、単身、泥棒との直接対決を決意する。そのために身体を鍛え、愛しのマイホームも改造する。シチュエーション・コメディ、ここにあり、といったところか。
この映画のクレジットを見ると、監督、企画、脚本、プロデューサー、いずれも男性である。要所に女性が1人もいない。だからか、典型的な男性の思考で話が進む。新居に泥棒が何度も入ってくる、困ったな、どうしよう。そこで妻や子供と一致団結しない。換言すれば、協調性がない。一家の大黒柱なんだから、父親が何とかすべきだ、という方向性を物語は採る。女性の観客からは、「バカじゃないの」と一笑に付される気がしなくもない。このアナクロニズムもヒットしなかった要因のひとつか。ご記憶の方も多いであろうが、当時の文化の中心は女子高生や女子大生であった。そんな情勢下において男性中心的な世界観は、ちと分が悪くないか。
「素性不明の侵入者との攻防」という、この映画の枠組み自体は、そこまで珍しいものではない。『ダイ・ハード』(Die Hard, 1988)や『ホーム・アローン』(Home Alone, 1990)なんかは、正にそれである。官庁や大企業の電子システムに侵入を企てるクラッカーと、それに対抗する対策チームや警察との攻防劇も、この類型と言っていい。
私たちはおそらく「どう攻めるか、どう守るか」の(必死の)やりとりを見るのが好きなのである。これはたぶん、国籍や世代を問わない。だからやはり、この映画における焦点は、明石家さんまがどう攻めるか、武田鉄也はどう守るのか、なのであろう。