今回、タイトルに『はだしのゲン』と掲げられているのを見て、少なからぬ人が「えっ?」と当惑したかもしれない。あの『はだしのゲン』? マンガじゃなくて? そう、実は『はだしのゲン』は一九八三年にアニメーション映画化されていたのである。
『はだしのゲン』とは、広島県で漆塗りを営む家の三男として一九三九年三月に生まれた中沢啓治が、少年時代の戦争体験をベースに描いた自伝的マンガである。発表されたのは中沢が三十代の時分。当初の発表媒体は週刊少年ジャンプだったが、連載時の人気がそうでもなかったなどの理由から、同誌発行元である集英社からは単行本が出なかった。
紆余曲折あり、七五年に京都の汐文社という出版社から単行本が刊行。最初は売れなかったものの、当時の若者からカリスマ視されていた作家の大江健三郎や、保守系国会議員(七〇年代には戦争の記憶を生々しく持った議員があたりまえにいた)の支持を受け、徐々に巷間に浸透していった。その後は英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などに翻訳され、広汎に流布。国際的に販路を広げた。
七〇年代、日本の世間で戦時中の記憶はフェイドアウトしつつあった。その中で、戦争や原爆の被害をリアルに伝える同作品は、貴重な資料あるいは教材として重宝された。今はどうなのかよく分からないが、九〇年代に小学生だった人なら、マンガ版『はだしのゲン』を学級図書として見たことがある例は多いと思う。もちろん私もご多分に洩れず。当時通っていたのは、大阪北部にある至ってフツーの小学校で、教室の本棚には『はだしのゲン』のほかに『
こちら葛飾区亀有公園前派出所』や『
ブラック・ジャック』などが配架されていた。
閑話休題。
一定の知名度を得たことを受け、七〇年代後半に『はだしのゲン』は三部作の実写映画になった。余談だが、この三作目(八〇年)には赤塚不二夫とタモリが出演している。しかし中沢は、当時の実写映画では技術的な理由から作品の世界観を再現できないと判断。八〇年代に入り、私財を投じてアニメーション映画の作成に乗り出した。それがアニメ映画『はだしのゲン』である。
制作は七〇年代前半に虫プロダクションから枝分かれしたマッドハウス社が、監督はテレビアニメ『ジャングル大帝』などに携わっていた真崎守が務めた。昔のアニメに明るくない人には「何のこっちゃ」と思われるかもしれないが、要するに本作は、中沢のマンガをベースにしてはいるが、画風や作風は明白に異なっているということである。
このことは、マンガ版『はだしのゲン』を知る人なら、一瞥して分かるはずである。彼らは声を震わせてこう言うだろう。これは私が知っている『ゲン』にあらず! 画風がもう別物。これを原作者は了承したのか? たぶん了承済みだと思う。本作のクレジットで中沢啓治の名前は「原作、脚本、製作」の欄にしっかりと登録されている。
中沢がマンガを描き出した契機は、手塚治虫の『新宝島』を読み、感銘を受けたことだという。そしてマッドハウス社は手塚が設立した虫プロの分派にあたる。中沢にしてみればこの企画は「我が人生ここに極まれり」だったのではなかろうか。ビートルズに感化されてバンドを始めた人が、ジョージ・マーティンをプロデューサーに迎えてスタジオ・アルバムを作った、みたいな。
しかし興行成績はそんなに芳しいものではなかった。無理もない。本作は中沢のアヴァターであるゲン少年を中心に、広島に投下された原爆をはじめとする戦争被害を克明に描く。率直に言えば、ある種の私小説であり、その第一義は「戦争がもたらす悲惨さ、理不尽、そしてその渦中における人間のあり様」を忖度なしに映像化することである。こうなるとエンターテインメント性はどうしても二の次になってしまう。ちょうど、労働者の過酷さを描くことを第一義にした『
蟹工船』が、物語としての面白さを犠牲にしたように。
それは、もしかしたら「大人が子供に伝えたい史実」ではあるかもしれない。しかし子供は、同じ映画であれば「面白い映画」を観たいと思うものである。齟齬はここにある。面白くなければ、子供は観ない。面白いと思えば、たとえ大人が放っておいても子供は観る。もちろん中には「戦争がどういうものかを学び、語り継いでいくことが大事だと思います」と述べる学級委員長マインドの子供も一定の割合でいるだろうし、それはそれでいいのだが、だいたいの子供はそうではないと思う。
「『はだしのゲン』って、面白いか?」
この問いは、日本では半ばタブーになっている感がある。しかしこういう問いかけを黙殺するから、同作品は「教材」としてしか人々の話題に出てこないのではないか? なにも面白主義や娯楽に傾倒せよというのではないが、そこになんらかの面白さが含まれていないと、子供の多くは進んでアクセスしないという現実はあると思う。僭越ながら。