二〇一〇年代半ばから現在に至るまでは、ヒットする映画はアニメーションばかりで、実写映画の大半は(配給会社がどこだろうと)鳴かず飛ばずに終わることが多くなった時代である。その是非をここで論うつもりはない。しかし、前世紀末、九〇年代にはそうではなかった。当時は「映画」と言えば実写映画のことを指した。アニメ映画はおおむね子供か一部の変人(マニア)向けの、いわば「邪道」とか「下位文化」程度の位置づけでしかなかった。ジブリ映画やエヴァンゲリオンなど、ヒットを記録したアニメ映画はちらほらとあった。それでも日本社会において、「映画=実写映画」という公式は、概して堅牢に維持されていたと思う。
その式が、二十一世紀に入って、音も立てずにゆっくりと崩れていく。
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もちろん実写映画にだって、ヒット作はあった。前年の二〇〇三年には『黄泉がえり』や『踊る大捜査線2』が全国的にヒットし、洋画でも『ラスト・サムライ』や『マトリックス・リローデッド』などの実写映画を観るために、多くの観客が映画館に足を運んだ。翌〇四年には、邦画では『世界の中心で、愛をさけぶ』が、洋画では『ロード・オブ・ザ・リング』や『スパイダーマン2』などの実写映画がそれぞれヒットし、時代に大なり小なりの爪痕を残す。
つまり『イノセンス』が公開された〇〇年代半ばというのは、映画といえば実写映画だった九〇年代と、「ヒットするのは軒並みアニメ映画」の一〇年代を架橋する、いわば移行期だった。そう見ていいと私は思っている。
と、時代背景をざっくりと語ってきたところで本題に入ろう。『イノセンス』とはどういう映画か?
『イノセンス』は、いわばSFアニメである。作品舞台は二〇三〇年代前半。当時から見ても、あるいは現時点(二〇二四年)から見ても近未来である。そこではロボットと人間が日常的に共存している。物語は、とある女性型アンドロイドが所有者(もちろん人間)を惨殺する事件が立て続けに起こったことに端を発する。こう書くと、同〇四年公開の洋画『アイ、ロボット』の設定と似ていると思い当たる人もいるだろうが、本作は『アイ、ロボット』とは関係が(当たり前ながら)ない。被害者の中には政治家もいたので、公安はロボットを使ったテロ事件の可能性を考え、捜査に出る。物語が進むうちにテロの可能性は極めて薄いことが明らかになるのだが、そんな折、当アンドロイドの販売元=ロクス・ソルス社の出荷担当者が惨殺されてしまう━━。
ここまでの概略でご賢察のように、本作が示すのは「人間と機械は共存できるのか?」という問いである。少なくともそういうテーマが伏流していることは確かだろう。その点でいえば、本作は特に目新しいものではない。産業革命以降、十九世紀から二十世紀半ばにかけて成立したサイエンス・フィクションの枠から外に出たものではない。そう言っていいだろう。もちろんそんなことは脚本を書いた押井自身、重々承知していたと思うけれど。
ストーリーやテーマで目新しさをアピールできない以上、表現形式のどこかに「新しい何か」を盛り込まねばならない。押井監督はそう考えたのか、本作においては、当時としては画期的だった3Dモデリングによる映像表現がトライされた(必ずしも手放しで成功と言える結果にはならなかったけれど)。海外からは本作の芸術性を高く評価する声もちらほらと上がったという。
「芸術性が評価された」ということは、裏を返せば「娯楽性はそんなにない」ということで、それで十億円前後の興行収入は、十分に健闘したと言っていい数字であるかもしれない。
先に述べたように、今作が封切られた〇四年は、同じようなテーマを内包した実写洋画『アイ、ロボット』が公開された年でもある。つまり〇〇年代半ばの当時、高度に発達した映像技術によって、近未来SFは実写映画として過不足なく作れるくらいにはなっていた。となると、今作がアニメである必要は特になかった、と言えるかもしれない。これが「映画でヒットするのは軒並みアニメばかり」の一〇年代以降であれば、また違う結果になったかもしれないが、そこへの移行期である〇〇年代にあっては、実写映画の方に軍配が上がったということなのだろう。