なるほど、宮崎駿はここで「女の子の成長」を描き切ろうとしたんだな。そう思ってもおかしくはないくらい、この映画は女の子の成長に欠かせない要素を連続的に、ふんだんに、生き生きと描いているように見えます。そう、『魔女の宅急便』(一九八九)です。
本作は角野栄子の同名小説を原作とするアニメーション映画です。監督、脚本、プロデューサーは、一九四一年生まれの(つまり公開当時は四十代だった)アニメーター宮崎駿。宮崎といえば、一九八八年に公開されたアニメ映画『となりのトトロ』でも監督と脚本を務めていました。なんでも、当初は『魔女の宅急便』の監督は別の人が務める予定だったのですが、スポンサーから「宮崎以外の人の映画に出資する気はない」と言われたため、宮崎が(トトロ制作とほぼ同時進行という過密スケジュールで)登板することになったのだとか。
この話が九〇年代あるいは〇〇年代のものなら、多くの人が納得すると思います。当時の「宮崎駿」は個人名というより一種のブランドでしたから。しかし八〇年代後半ではそうではなかった。当時、アニメ映画というのは、子供達か一部のマニアの人達かしか観ない、限定的なコンテンツだったんです。今日のように、老若男女がアニメ映画にぞろぞろ足を運ぶなどという現象は、八〇年代の本邦にはそうそうなかった。前年に公開された『となりのトトロ』も、興行成績は赤字で、長期的にキャラクター・グッズを販売することでそれを補填したと言われています。つまり当時の宮崎はブランドでもヒットメイカーでもなかったのです。
当時の日本はエコノミー・バブルで景気は良かったから、そういう「儲かりそうもないコンテンツ=アニメ映画」にスポンサーがつくこと自体はありえたと思います。企画は面白そうだし、やってみたらいいんじゃないの。そう鷹揚に構えて、いくらか出資してくれる会社は、それなりにあったでしょう。しかしそういう外部の人が、ろくにヒット作品を出せていない時代の宮崎を指名するかな、と私なんかは訝ってしまうのです。まあ、実際の所は藪の中ですけど。
本作は、おおむねスタジオジブリが制作したと言っていいでしょう。宮崎や、彼のアニメーター仲間である高畑勲の制作拠点としてジブリが設立されたのが一九八五年。しかし先述のように、当時ジブリはヒット作を世に送り出せてはいなかった。だから『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』の制作時、ジブリは実は廃業の危機に面していたと聞きます。まさに背水の陣です。さいわい、事実上のラスト・チャンスだった『魔女の宅急便』がヒットしました。観客動員数が約二六四万人、配給収入は二十一億円以上。これは当時の日本のアニメ映画の興行記録を大幅に更新するスマッシュ・ヒットだったのです。
本作は、それまでうだつが上がらないマイナー・スポットに過ぎなかった宮崎とスタジオジブリを、一躍ヒットメイカーにしました。ではこの『魔女の宅急便』とはどういう物語なのでしょうか?
主人公はキキという名前の、十三歳の魔女(魔法が多少使える女の子)です。魔女の家庭には「魔女として生きる女子は、十三歳の満月の夜に旅立ち、知らない町で一年間は過ごさねばならない」というしきたりがあるらしく、彼女はそれに従い、愛猫のジジと共に満月の夜、家族や地元の友人が見送る中、あてもなく旅立ちます。要するに「十三歳にして親離れ」です。魔女である彼女の交通手段は汽車ではなく、ホウキにまたがって空を飛んでいきます。
ややあって、海に面した都会の町を見つけたキキは、ここに住もうと思い立ちます。どちらかといえばのんびりした故郷から出てきた彼女にとって、そこは「華の都」に見えたのかもしれません。しかし都会は「身元保証人のない十三歳の少女」を容易には受け入れません。あまつさえ、彼女の空中浮遊は、当局の許可を得ていない危険行為と見なされ、警官まで出てきます。ここに自分の居場所はないのかもしれない。キキはしょぼんと落ちこんで、話せる猫であるジジは、よその町へ行こうと彼女を慰めます。
異郷の地で身寄りも有力なコネもない。なんだか四面楚歌に思えるキキですが、捨てる神あればなんとやらで、彼女を受け容れる人も現れます。ご夫婦でパン屋を営む「おソノさん」という妊婦さんです。ちょっとしたことで彼女を助けたキキは、彼女といくらか話し込んだ末に、彼女達の家に下宿させてもらえることになります。そしてそこを拠点に、自分の魔法(空中飛行能力)を活かし、キキは「個人宅配業」をやっていこうと考えるのですが━━。
と、こういうお話なんですが、前にも述べた通り、本作には「女の子の成長に欠かせないファクター」が網羅的に出てきます。さすがにそれらを全部列挙するわけにはいきませんが、いくつか例を揚げてみますね(念を押しておきますが、これはあくまで個人的な解釈で、作品の真相などではありません。こんな見方もあるのか、くらいに受け取って頂けると重畳です)。
彼女の愛猫であるジジは、おそらく彼女の童心の象徴でしょう。キキはジジと会話しますが、他の人にとってジジはただの(話せない)黒猫であるらしい。それは「ジジは、本当は話せない」を暗示します。つまりキキとジジとの会話とは、小さい女の子が大好きなぬいぐるみやペットと交わす会話のようなものなのではと。事実、キキが男性に淡い恋心を抱き、大人への階段に足をかけたとたん、ジジは「話さないただの猫」になります。女の子の成長には、童心との決別が欠かせないのかもしれません。
二つ目は、宅配業を営むキキが、ある日知り合った、森の小屋に独居する女性画家(本編中に彼女の名前は出てこない)です。たぶん二十歳前後であろう、キキよりも年上で、ナイスバディを惜しげもなく披露する彼女は、魔法について深く悩むキキに、自身の経験を包み隠さず吐露します。自分も画家として同じように悩んだことがあると。この名前のない画家とキキは、同じ声優(高山みなみ)が演じていますから、彼女がキキの鏡像であることは、容易に想像がつきます。成長には悩みがつきもので、しかしそれは多くの人が経験するものでもあります。悩みや苦しみを分かち合える「もう一人の自分」との出合いを通じて、少女は大人に近づくのでしょうか。
さて、最後です。少女は身の回りの「大人の女」をロールモデルにして、大人に成長する。そういうことはあると思います。女の子と「大人の女」の違いをもっとも如実に表すものといえば、やはり色気ではないでしょうか。性的魅力と言いますか。しかし件の女性画家は、どうにも色気を象徴してくれません。なにしろこの人は、なかなかにグラマラスな身体で、露出度の高い薄着でいるにもかかわらず、大人の男から「男に見えた」と評されるのです。さりげないシーンですが、宮崎はここで念入りに「この女(画家)に色気はないのだ」ということを、観客に印象づけます。そう言われてみると、たしかにこのおねえさん、身体は立派ですけど顔はへちゃむくれっぽく描かれているんですよね。『トトロ』のメイっぽいというか。
ということは、つまり「色気を担う女性キャラクターは他にいる」わけです。それは誰でしょう? 異郷の町でキキを最初に受け容れた「おソノさん」ではないでしょうか。彼女は妊娠していますが、その子は本編では生まれません。終盤、彼女が急に産気づいたことが示されるのみです。物語のプロットを見るかぎり、彼女が妊婦である必然は特にないように思えます。でも彼女は妊娠している。それは母性の象徴であると同時に、「非処女」の証明でもあります。だからなのか、さばさばとした「働く女」である彼女には、うっすらと色気が漂っているように見えます。
きりがないのでこのへんにしておきますが、こうして見ると、本当にこの映画は、少女から「大人の女」まで、女性のさまざまな相を、ありありと描いていますよね。なんだか「女のショーケース」と言えそうなくらいです。それらの中心に十三歳の少女を配することで、宮崎は「女の子の成長」を描き切ろうとしたのかもしれません。
宮崎はその後、「女はもう充分に描いたから、次は男だ」と思ったのかどうか知りませんが、『
紅の豚』(一九九二)の制作に取りかかります。