『間宮兄弟』は江國香織の同名小説をベースにした映画で、二〇〇六年に公開された。興行収入は約三億円。商業的にコケたわけではないだろうけど、同じ年にヒットした『硫黄島からの手紙』とか『ダ・ヴィンチ・コード』に比べると、時代に刻まれた印象はいささか薄いかも知れない。
本作の主人公は、間宮という名字を持った三十路前後の兄弟である。佐々木蔵之介が演じる間宮兄はビール会社で、間宮弟(塚地武雅)は小学校で用務員として、それぞれ働いている。どちらも恋人はおらず、結婚もしていない。
これだけなら「至ってありふれた、どこにでもいるフツーの兄弟」だろう。ところがこの兄弟は、東京のマンションでいっしょに住んでいるのである。実家暮らしというわけではなく。もし兄弟が二十代前半であれば、そういう設定も「まぁなくはないかな」で落ち着くところだけど、三十路前後となると、なかなかないような気がする。もちろんこれは私のバイアスかもしれないけれど、でも一人の男として、そう訝ってしまう(私が知る範囲でいえば、男の兄弟はだいたい十~二十代でそこそこ疎遠になると思う)。
でもまぁ、こういうのはそれぞれの家庭の事情だから、文句を言う筋合いでもない。間宮兄弟だって、共同生活を営んでいて特に困ることもないのだろう。彼らは日々、趣味と労働を謳歌している。それで何が悪いんですかと詰問されたら、返すべき言葉は思いつかない。ただそれなりの歳ではあるので、やはり「結婚」という選択肢が不可避的にチラついてしまうのか、ある日、間宮弟は顔見知りの女達(女教師と女子大生)とのホーム・パーティーを催そうと兄に持ちかける。
パーティーは無事に開催される。こうなって分からないのは、間宮弟の目的である。兄に結婚してほしいのか? 兄をダシにして女に自分を印象付けたいのか? あるいは仲がいい兄弟だから揃って恋愛したいのか? 彼が何を目的としてパーティーを企図したのかが、今一つ判じないのである。たぶん三番目の「仲がいい兄弟だから揃って恋愛したい」だろうと推察するけど、それは女達より「兄弟であること」を優先した考えだから、招かれた女からすればいい気はしないはずである。だから、女教師(常盤貴子)とも、沢尻エリカが演じる大学生とも、うまくはいかない。
これは彼女達の個人的資質や男女の相性がどうという以前に、そもそも「完結している世界は他人の介入をそう簡単に許さない」という話だろう。この兄弟の世界は、二人だけである種の自己完結を見せている。彼らは、兄弟が揃っていればそれでいいという世界の住人なのである。だから、他人はそこへ入って行きにくいし、わざわざ入って行く意味も見出せない。
この年の夏には、阿部寛が主演を務めたフジテレビ系のドラマ『結婚できない男』がヒットした。それでいえば、間宮兄弟は「結婚できない男達」である。当時は「それなりに収入があって、女と縁がないでもないのに、なぜか結婚に至れない男」がクローズアップされたということだろうか。
阿部が演じた桑野信介や、間宮兄弟は、「個人として人間関係をまともに構築できない男」と言えるかもしれない。彼らは、労働を介する公的な「社会」という場ではそれなりに人間関係を築けるのだけど、そこを離れて一個人としてとなると、他人とうまく関係性を構築できない人種である。それでこの三者の共通点はなんだろうと思量すると、差し当たり一つしか思いつかない。それは「オタクっぽい」ということである。
桑野はオーディオや模型など、一人で愉快に過ごせる趣味に没頭していた節がある。間宮兄弟も作中、随所で「オタクっぽさ」を露呈する。ここで「オタクとはなんぞや」を述べるつもりはないけど、そう考えると確かに、オタクには「個人として人間関係をまともに構築できない」という欠点が(多くの場合)見られるように思う。
オタクには、他人に対して、変に攻撃的になるか、対人恐怖症っぽさを呈してしまう人が多い。たぶん彼らは、「自分を裏切らないもの」にアディクトする一方で、自分を裏切るものは極力排斥したいという人達なのだろう。想定外を嫌う人達というか。他人というのは裏切る可能性を多少なりとも秘めていて、オタクはその可能性を嫌悪する。それで彼らの人間関係は、おおむね家族中心になって、家(=お宅)に据えつけられるのだろう。作中では、中島みゆきが演じる母親が優しい笑みで兄弟を包み込む。
監督と脚本を手がけた故森田芳光は、そういうあり方を告発しているわけではないと思う。どちらかといえば、この不器用な兄弟を、あたたかく慈しむような眼差しで見守っている。そういうあっけらかんとした映画だと思う。