こんにちは。前回のお題は、1964年に開催された東京オリンピックの記録映画『
東京オリンピック』でした。観た人はご存じでしょうが、この記録映画の中では、20代の長嶋茂雄と王貞治が共演しています。彼らは当時の野球界のヒーローでありスターでありました。また、長嶋はこの東京オリンピックでコンパニオンを務めていた西村亜希子に一目惚れしてアタック、同年11月に彼女との婚約を発表し、翌1965年には結婚したわけですから、長嶋と東京オリンピックは浅からぬ関係にあると言っていいでしょう。
ただ、こう言われても、今の50代以下には、長嶋茂雄という存在がどういうものだったのか、ピンとこないと思います。長嶋が「ミスタープロ野球」とか「昭和の野球を代表するスター」などと無闇に讃えられていることはわかる。過去、名選手だったことはなんとなく知っている。でもその根拠となると、よくわからない。それが当今の50代以下のリアリティだろうと愚考します。
長嶋茂雄とはどういう存在だったのか? それを如実に語る映画が、東京オリンピックと同じ年に公開されました。今回のお題である『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』です。
まずは長嶋茂雄についてお話ししましょう。彼は町役場で働く長嶋利の次男として、1936年の千葉に生を受けます。まだ日中戦争も太平洋戦争も開戦前という時期です。幼い頃より野球が好きで(当時はタイガースのファンだったそうです)、終戦の1945年、当時9歳の彼は、国民学校の仲間たちと野球チームを結成したと伝えられます。
1954年、長嶋は立教大学経済学部に入学。入学した同日には立大-東大のリーグ戦に出場。この年の6月、一家の大黒柱である父の利が急逝するのですが、長嶋は母親の奨めで大学に通い続け、11月には映画『ゴジラ』が封切られます。のちにゴジラ松井の巨人入団と同時に長嶋が巨人軍監督に再就任したことを思えば、奇妙な縁だと言えるでしょう。(そうでもないか?)
1958年、22歳の長嶋は立教大学を卒業。高校、大学時代の成績を買われ入団した巨人軍で、プロ野球選手としてのキャリアをスタートさせます。そのデビュー戦こそ、国鉄の金田正一に4打席4三振を喫しましたが、その後は豪胆無比の活躍を見せ、この年のセ・リーグの本塁打王、打点王、新人王に輝きます。
1960年、前年に奏功した3番王貞治、4番長嶋の、いわゆる「ON砲」が巨人軍に定着。長嶋は、前年に続いてリーグ首位打者、ベストナインに輝きました。華々しいプレイとどこか危なっかしい粗忽な気質(この年の対国鉄戦では前の走者の藤井を追い越してアウトになったりしています)、これを兼ね備えた長嶋は、名実ともに野球界のスターでした。そしてスターの長嶋と、彼に比肩する王を擁する巨人軍は、その黄金時代を築いていたのです。
『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』の舞台は、1963年の巨人軍です。この年、長嶋は首位打者、打点王、ベストナイン、そして日本シリーズで初のMVPに選出されました。まさに絶頂期です。映画のテーマは、当時、長嶋はいかに活躍し、また、いかに苦悩していたかで、いわば「フィクションとノンフィクションの間」みたいな映画なのですが、主演は長嶋茂雄で、なんと彼が本人役として演技しています。というか、その他の選手たちも、本人役で出演しています。川上哲治、王貞治、藤田元司など。
だから「映画としてどうか」と訊かれると、返答に窮する映画だと思います。そのためか、DVD化もされていません。しかし、「当時、長嶋茂雄とはどのような存在であったか」は十全に伝えていると思います。時代の空気は間違いなくパッケージされているというか。それに、脇を固める俳優も、沢村貞子、宝田明、仲代達矢、淡路恵子などの名優ばかりですから、一時代の資料にしては、豪華絢爛に過ぎると言えるのではないでしょうか。しかも主題歌を歌っているのが坂本九ですからね。いやはや、すげぇ時代だなと思います。