お疲れ様です。本日のお題は、『踊る大捜査線 ザ・ムーヴィー』です。フジテレビ系列のTVドラマ「踊る大捜査線」が1997年初頭、まずまずのヒットとなりました。その余勢を駆る形で1998年に同番組を映画化した作品です。主人公はTVドラマのときと同様、織田裕二扮する青島刑事。湾岸署という架空の警察署に勤務する、元サラリーマンの刑事です。彼やその同僚を主軸とし、警視庁という組織における「現場と上層部の相克」を描いたのが「踊る大捜査線」であり、映画版でもそのテーマは引き継がれました。
青島や彼の仲間は現場の刑事ですが、彼らは実際の現場を知らない(現場作業に関わることのない)上層部の「空論」や「政治」に終始振り回される。このリアリティが「踊る」シリーズの人気を決定付けた。定説ではそうなっているらしいです。
もちろん、そういった「現場と上層部の相克」を描いたのは、何も「踊る」が最初の例ではありません。
アングロサクソン系の小説では、往々にして著者の職業がそのまま主人公の職業になります。たとえば『目撃』(講談社文庫、1993年)は、FBI捜査官を主人公に配した、いわゆるクライム・ノヴェルですが、作者のポール・リンゼイ(1943-2011)は現役のFBI捜査官でした。こういった作品においては、しばしば上司や署長が無理解な悪役として配され、現場の捜査官はジレンマを抱えて成長(あるいは堕落)していきます。
誤解されては困るのですが、だから「踊る」はアメリカ小説のエピゴーネンに過ぎない、などというつもりは毛頭ありません。もっと遡れば、たとえば山本七平(1921-1991)なども、戦時下における現場と上層部の「意識の乖離」を著していたと言えなくもない。さすれば「現場と上層部の相克」というテーマは、少なくとも20世紀というタームにおいては、ある種の普遍性を持っていたと言っていいはずなのです。
では、なぜ「踊る」以前の警察ドラマではそういったテーマが取り上げられなかったのか。たとえば「古畑任三郎」や「西部警察」や「あぶない刑事」にはそういったテーマはなかったですよね。少なくとも表面化はしていなかった。そもそもそれらのドラマの舞台は(「踊る」と比して)ある種の「非日常」であったと言えなくもない。古畑みたいな刑事が実際にいたら、とっくに処分の対象になっていて、おそらく現場に現れることはないでしょうからね。もちろん、だからこれらの作品はダメなんだ、と断ずるわけではありません。個人的には「古畑任三郎」、好きですし。
「踊る」以前のドラマでは、たぶん、警察組織のリアリティなどというものは視聴者から求められていなかったと思うのです。警察は公的組織であり、公務員などよほどの物好きがなるものだ。給料は安いし、仕事は地味だし、自由度も少ない。公務員なんかより民間で働く方がよっぽどいい。それが経済成長の時代の、一般的な見解だったのではないかと。当然、警察の実相などには関心も大して払われないでしょう。だから「現場と上層部の相克」のようなテーマは敢えて盛り込まれなかった。それよりも非日常を演出し、視聴者にカタルシスを提供するほうが、番組として優先されたのでしょう。
しかし、時代は変わりました。金融バブルは崩壊し、俗に「就職氷河期」と呼ばれる難局を迎えたのです。それが’90年代半ば。
そこでは公務員は安定しているということで、一転、警察は就職先として有力視されました。こうなると、おちおち警察は「非日常の舞台」ではいられません。組織として実際にどんなところなのか。そこに世間は注目したでしょう。その需要に応えたのが「踊る」だったのではないでしょうか。
「踊る」シリーズの脚本を担当した君塚良一によると、企画当初は「踊る」を恋愛ドラマにするという構想もあったみたいです。しかしドラマ第1話の放映後の反響を見て、その路線はボツになったという。さもありなん。当時の視聴者は「警察ドラマ」に対して、そんな能天気なものはもう望んでいなかったのです。もっと警察にリアルに迫ったドラマを、切実に求めていた。そう考えると、同シリーズは「時代の寵児」であったと言えなくもありません。映画版の興行収入は100億円を突破しました。
今この映画版を観ると、話がどうだ、演出がどうだ、と言うのよりも、やはり当時の時代背景に思いが至ります。ルーズソックス、たまごっち、ヤマンバ、
PHS、エヴァンゲリオン、プリクラ、エア・ジョーダン。次々と連想してしまう。それが「時代の寵児」の宿命と言えばそれまでなんですが。