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『それでもボクはやってない』
現実と、事実と、真実と

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2007年1月に公開されたこの東宝映画の話を簡単に言うと、電車内で痴漢行為を働いたということで起訴された主人公の男性が、日本の司法制度下で無実を証明するべく奮闘する、というものになるだろう。公開当時にはちょっとした話題になり、興行収入は約11億円を数えた。監督と脚本を手掛けた周防正行は、徹底的に取材をした上で、当時の日本の裁判のリアリティを1人でも多くの人に知ってもらいたいと思い、本作を撮るに至ったという。

痴漢というのは、そもそも立証が極めて困難である。多くの場合、それは大変混雑した電車内で行われる。目撃者もそうそういない。電車の中で他人を集中的に注視している人など滅多にいないからである。だから女性が、身体を不当に触られたりまさぐられたりしたと愁訴しても、その正当性を証明するなどは(ほとんどの場合)現実的に不可能である。電車で痴漢に遭うことを防ごうと思えば、以下のどちらかを女性側が採るしかない。

(1)電車に乗るときは女性専用車両に乗る
(2)電車に乗るときは空いている車両に乗る

さてしかし、やむをえない事情があるのか、女性の中には混雑した男女兼用車両に乗る人もいる。劇中では、柳生みゆ演じる女子中学生がそれに該当する。そこで彼女は「痴漢に遭った」と主張し、加瀬亮演じるフリーター青年を告発する。

告発されてどうなるか。痴漢は立証が困難だと前述したが、それは裏を返せば無実を証明するのも困難だということである。青年は無実を訴える。しかし、駅員も警官も彼を信用しない。信用する根拠がないからである。青年は被害を訴えた女子中学生と話をすることすらままならず、長期にわたって拘束され、話は裁判にもつれこむ。

ここで「ひどすぎる! 原則的に『疑わしきは罰せず』じゃないのか。疑いをかけられたに過ぎない段階でここまで不当に扱われるなんて、人権侵害も甚だしい」と怒る人もいるかもしれない。気持ちは分かる。でもこの「疑わしきは罰せず」を厳格に適用すると、警察や法曹界は機能しなくなるのではないか。

だって、その「疑わしさ」は、いつ確信に変わるんですか? たとえば悪質な事件の裁判がもつれにもつれて、やっと最高裁が判決を下したとする。しかし世間がその判決を「妥当ではない」と目することは、ちっとも珍しくないはずである。最高裁の判決を「真実である」と受け取るほど、私達の社会は幼児的ではない。ということは、論理的にいって、かけられた疑いが決定的にクロかシロか判じる機会は、じつは絶無なのである。

警察や法曹界に携わる多くの人間は、そのことを熟知しているのだろう。真実などというものは誰にも分からないと。だから彼らは、決められた手続きを非カラフルに粛々とこなす。彼らにとってフリーター青年は、単なる「痴漢容疑者」でしかなく、それ以上でも以下でもない。彼の資質とか経歴とか素性とかは、一応取り調べはしても、基本的に「知ったこっちゃない」だろう。彼らにとっては、容疑者も被害者も、工場のベルト・コンベアでマニュアルにそって淡々と処理されるマテリアルと大差ないのではないか。

「それでいいのか?」の声はあるだろう。もうちょっと人としてしっかり扱うべきじゃないかと。しかし次から次に出てくる容疑者や被害者にいちいち人間的に腰を据えて対応するとなると、警察や法曹界の人達の労働時間や精神的負担は膨大なものになる。現場のブラック化も進んでしまうだろう。そうなると今度は違う方面から「それでいいのか?」の声が出てくるはずである。

映画の話に戻る。

本作では、観客も「神の視座」を持つことが許されない。たとえば『古畑任三郎』なら、視聴者は誰が犯人か分かっている。その上で、どうやって犯行の手口が明らかにされるのかと、ゆっくり高みの見物をしていればいい。でも本作ではそれが許されない。観る側も「誰が正しいんだろうか」と考えながら物語に付き合うことが要される。

柳生みゆ演じる女子中学生は「ほんとうに」痴漢被害に遭ったのか? 加瀬亮演じるフリーター青年は「ほんとうに」痴漢行為をしていないのか? 女子中学生と青年以外の人にとっては、すべてが藪の中である。これが司法の現場に携わる多くの人達が対面する困難なリアリティなのだろう。結末には賛否あるかもしれない。

作品情報

・監督:周防正行
・脚本:周防正行
・音楽:周防義和
・配給:東宝
・公開:2007年1月20日
・上映時間:143分





 

『おっぱいバレー』
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