梶尾真治の同名小説を原作とするこの東宝映画は、二〇〇三年一月に全国公開された。最初は三週間の期間限定で上映する予定だったらしいが、巷間で好評を博したためロングランになったという。興行収入は約三十一億円。主題歌の「月のしずく」もこの年を代表するヒット曲になった。
物語は、熊本県の阿蘇地方で、亡くなったはずの人達が蘇り、生者と何ら変わりなくそこでフツーに暮らしているというミステリアスな現象に端を発する。カメラは当地の「生き返った故人と再会する人々」をカレイドスコープ的に映す。そこは厚生労働省職員、川田平太(草彅剛)の故郷でもあった。その縁で彼は一連の「よみがえり現象」の調査のために熊本へ向かう。
故郷の阿蘇で川田が再会したのは、幼馴染の橘葵(竹内結子)だった。彼女は幼馴染の(つまり川田の旧友でもある)俊介と婚約していたのだが、俊介は結婚前に海難事故で他界したという。同地方で「よみがえり現象」が起きている以上、俊介が生き返っていてもおかしくはない。しかし俊介の姿は一向に確認されない。亡くなった婚約者に会えないままでいる彼女を不憫に思いながら、川田は現象の調査に乗り出す。
調査は「よみがえり現象」と関わることになった地元民への聞き込みも含んでいる。一度はあの世へ旅立った人と期せずして再会した人達のドラマが、断片的かつ並列的に提示される。話の主軸はあくまで川田と橘のコンビなのだが、一種の群像劇という要素もあるのかもしれない。
やがて調査を進めるうち、川田は当地の森にある大きなクレーターと「よみがえり現象」の関係に思い当たる。当地で亡くなったからといって、誰も彼もが無差別に生き返るわけではない。つまり「よみがえり現象」が適用される人とされない人がいるのである。その違いは何に由来するのか? 川田は不可思議な現象の核心に迫る。
一方、川田とは無関係なところで、活動を長期休止していて死亡説まで流れた女性歌手のRUI(柴咲コウ)が当地でコンサートを開催する。先述の「月のしずく」は彼女の持ち歌という設定で、劇中で唄われる。
と、こういう話なのだが、私が疑問に思うのは、地域限定で故人がいくらか蘇ったからといって、厚生労働省がわざわざ熊本まで調査に赴くだろうかという(くだらないと言えばくだらない)点である。死者が生き返ることは確かに一大事だし、弩級のミステリーである。そこは進んで認める。でもそれが社会的な事件かといえば、必ずしもイエスではないと思う。別にゾンビが大量発生して生者を襲撃するとか、生き返った人達が未知のウイルスを持っていてそれが地元民の健康を害するとか、そういう話ではないのだから。
死者が何人か生き返っても、それで社会がなんらかの迷惑を被るのでなければ官庁は進んで動かない気がする。この「よみがえり現象」に強いて事件性を見出すとすれば、おそらく「戸籍がない人が同時多発的に生じる」ということになるだろう。そうなると話は法務省の管轄になってくる。でも、「よみがえり現象」がなくても「戸籍を持たない人」はいると言えばいるのだから、やはり法務省も積極的には動かないように思う。
原作の小説では、川田の職業は新聞記者だという。そっちのほうが話としては自然だろう。ただ、本作の筋立てを考えると、「確かにこの主人公なら新聞記者より若手官僚だろうな」という気はする。だから、この改変について文句を言うつもりはない。映画の技術点を言うなら、カメラワークや編集にもそれほどの難点はないと思う。必要な情報を必要なだけ映写している(と思う)し、それぞれのシーンの展開もおおむね安定している。
二〇二〇年九月、本作でヒロインを演じた竹内結子が四十歳という若さで他界した。本作の舞台となった阿蘇地方は二〇一六年、熊本地震に見舞われたが、彼女はその復興支援活動を、亡くなる直前まで続けていたという。今、改めて本作を観賞すると、当時リアルタイムでは感じ得なかった何かを感じる向きも多分にあるのではないだろうか。
本作の「泉下の客がもう一度現世にあらわれる」という結構は、その後、二〇一一年公開の東宝映画『ステキな金縛り』に受け継がれたが、こちらにも草彅と竹内は出演しているから、制作陣には『黄泉がえり』へのオマージュという意識が(いくらか)あったのかもしれない。そう考えると、時間と体力に余裕がある折には、本作と『ステキな金縛り』を二本立てで観てみると、また違った味わいがあるかもしれない。