実は(と言うほどのものでもないけど)昔日、肉体労働に従事していたことがある。そのタイニーかつ限定的な経験から語るに、肉体労働者はジャズを聴かない。もちろん、全く聴かないわけではないだろうが、日常的に肉体労働に従事している人の中でジャズのヘヴィ・リスナーを探そうと思うと、海水浴場に落としたピアスの片方を真昼に探すよりも困難な場合が━━少なくとも日本においては━━多々ある。個人的印象としては、肉体労働者が聴く音楽は、往々にしてジャズよりポップスではないかという気がする。
さすれば、日本でジャズを聴くのはホワイト・カラーか、あるいは日常的には労働をしない人となるだろうか。かような人々がスリルや高揚を求めてジャズを愛聴するのだろう。けれど、いかなる世界に身を投じても私たちはストレス(精神的荷重)からは逃れられないゆえ━━肉体労働者がシップやマッサージなど肉体的癒しを要するように━━そういった層も「癒し」を必要とするわけで。そう、たとえば、ジャズ・ピアニスト木住野佳子が2000年にリリースした『テンダネス』のような癒しを。
『テンダネス』は、木住野の概略(履歴)において「初期のピーク」と言えるだろう。彼女は高校時代、先輩の影響で渡辺貞夫やオスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンズなどを聴き始め、ジャズの世界に足を踏み入れた(中学まではクイーンのファンだったと聞く)。結局彼女は音楽プロデューサーと結婚したわけだから、正に音楽漬けの人生なのだな、と思う。
さてさて、初期においてこそジャズの聖地ニュー・ヨークでピアノ・トリオに取り組んでいた彼女だったが、次第に日本人としてのアイデンティティを前面に出すようになる。黒人ブルーズより日本の童謡を演る、というような。そういった彼女のキャリアの大まかな流れを念頭におくと、『テンダネス』は彼女の初期の頂なのだと思う。ここにはまだジャズのスタンダードや海外のバンドのカヴァーを、自作曲を交えて演奏する木住野が存在するわけだから。
「内容はともかく、それが癒しとなるかどうかは、結局のところ主観の問題だろ」と言われるかもしれないし、それはそれでその通りである。しかし当時の木住野のテイストと「バラードばかりを演る」というコンセプトが奇跡的にマッチしているのもまた事実であり、たとえるならエヴァンズの『ムーンビームズ』のような静謐と愉楽が、そこには内在していると思う。ここに癒しを感じなくても、それは主観の相違というだけであって何の問題もない。ただ、穏やかな慈愛はひとつのアイデンティティとしてしっかりと感じられるし、だからこそ彼女の初期の「ピーク」なのでは、と思うのだ。
前回『
アンソロジー』の記事で「癒しの風情を木住野のオリジナリティと思い込んでいたとは、極めて皮相的な見方だった、という批判も成り立つだろうか」と書いた。けれど『テンダネス』や『マイ・リトル・クリスマス』など、このころの木住野の音楽には、確かにヒーリングの要素が包含されていたとも思うのだ。今聴いても。