一月、総理大臣が辞任を表明した。もちろん今年(二〇二六)の話ではなく、一九九六年の話である。時の総理大臣は自民党と連立を組んでいた社会党(現社民党)の委員長でもあった村山富市。太く白い眉毛が特徴的な老爺で、当時小学生だった私もなんとなくこの人のことは覚えている。
前年一月、淡路島沖を震源とする大規模な地震が関西を襲う。世に言う「阪神淡路大震災」である。兵庫県内だけで六千人以上の死者を出したこの大震災に面し、村山内閣は「おろおろするだけで何もできない」という様相を呈した。国内で大規模災害が生じ、多くの被災者が出たのだから、国の救助活動は文字通り一分一秒を争う。それが当たり前であることは、当時大阪で被災した子供の私でも分かった。しかし村山内閣は(どういう事情があったにせよ)即座に自衛隊を派遣もしなければ、諸外国に支援を要請するでもなく、無為に時間を空費した。当時テレビ越しにその様子を見て、子供ながらに「何やってんだこいつらは」とイラついたことを、未だに覚えている。
誤解のないように言っておくと、当時は緊急時の法整備などが未発達だったということもあり、初動が遅れたのは村山の個人的資質のせいではない。たぶん誰が首班であっても、事態はそれほど大きくは変わらなかっただろう。しかし現に被災した人間からすれば、彼らの動きがあまりに遅く見えたことは事実である。そして私と同じように思った国民が多かったのか、村山は支持率を回復することなく、翌九六年一月、首相退陣を表明する。
と、ここまで来て疑義を呈する人も多いだろう。これは『球体の奏でる音楽』の記事のはずなのに、なんでポップス系の話がかけらも出てこないで、当時の政治について延々と語る文章が続くんだ? と。

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『球体の奏でる音楽』
1996年10月16日発売
東芝EMI
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01. ブルーの構図のブルース
02. 大人になれば
03. Alé?
04. ホテルと嵐
05. すぐに会えるかな?
06. 旅人たち
07. 球体の奏でる音楽
08. みんなで練習を
全作詞・作曲・編曲:小沢健二
プロデュース:小沢健二
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本作は、一九九三年にソロ歌手としてデビューした小沢健二(一九六八~)の、三作目のアルバムとして九六年十月に東芝EMIからリリースされた。小沢は当時でいうところの「渋谷系」の代表格(と目される)ミュージシャンである。「ヴィジュアル系」でいえば、Xジャパンのヒデに相当する存在と言おうか。
ではあるのだが、当時をリアルタイムで生きていたにもかかわらず、個人的にこの「渋谷系」というのが全然記憶にない。ここでいう「渋谷」は言うまでもなく東京都渋谷区のことなので、もしかしたら首都圏ではそういうジャンル(なのか?)の音楽がある程度流行っていたのかもしれないが、大阪で暮らす身には全く届いてこなかった。私にとってオザケンこと小沢健二は、あくまでトヨタ・カローラⅡのCMソングを唄っている人でしかなかったのである。
ちなみにその「カローラⅡにのって」のシングル盤は今でも持っている。
オザケンは東大出のいわば学歴エリートであるから、当時の聴衆(の一部)が彼の音楽性や音楽家としてのスタンスに対し、天才性や選良性を勝手に感じるなどはあったろう。たとえば本作の先行シングルになった「大人になれば」を聴けばご了解のように、その音楽性は当時の国内で流行っていたユーロビートとか、あるいは既成のポップ感とはしっかり一線を引いたものである(九〇年代半ば当時、小沢と同世代の大西順子がジャズ界でちょっとした盛り上がりを見せていたので、音楽家としてジャズを前面に出した作風にトライしてみたくなったということはあるかもしれないが)。
この『球体の奏でる音楽』は、アリーナ・ツアー後に発表されたということもあってか、オリコン週間アルバム・チャート初登場一位を獲得した。当時彼はそれくらい人気者だったということだが、それはそれとして、私はなんとなく「この頃のオザケンのあり方って、当時の首相とどこかダブって見えなくもないな」と思うのである。
村山の次に総理大臣に就いたのは自民党の橋本龍太郎。再び自民党政治の時代がやってきて、しかし政局が良くなるわけではなかった。自民党が与党として救済できる範囲は、政官財の業界、及びその周辺にたむろしておこぼれを期待する取り巻き連中に限られていて、一般国民の生活に悪影響こそ与えられど、プラスになることはそうそう出来ない。そして自民党の総理大臣は(なぜか)その現実を直視しないので、彼らの活動はあさっての方向に空回りするばかりになる。
橋本内閣が発足して間もない春、住専こと住宅金融専門会社から不透明な融資を受けていた会社の社長が逮捕された。六月には住専の最大手に捜査が及び、程なくして住専七社が解散。前年九月に大蔵省は、住専に不良債権が六兆円以上あり、回収は不可能と発表していて、国は「このままでは住専への大口融資者(農協など)に多大な損害が出るから、住専やそこから融資されていた会社を潰して、その損失を税金で補おう」と考え、それに伴い住専とその融資先は消されたわけである。要するに「トカゲのしっぽ切り」で、そういう不明朗な事態をもたらした元凶は放置されたまま、巨額の税金が補填に回された。景況はもちろん悪化する一方で、翌九七年には消費税が五パーセントに引き上げられ、その傍らで政官財の業界人は汚職や不祥事をわんさか露わにする。それが九六~九七年の日本の政局だった。
橋本龍太郎は、民衆から「何もできない」と目されて退いた村山を見ていて、その後を継いだ。だから彼は「何かやらねば」と意欲に燃えてもいて、しかし先述のように、自民党の総理大臣が何かやろうとしても空転するばかりで、国民生活の救済には遠く及ばないのである。住専事件の顛末はそれを物語るものでもあろう。その様子は、当時のオザケンとダブって見えなくもない。
九〇年代半ば、オザケンはポップス界でちょっとした人気者になった。でも彼は、天才肌なのか単なる音楽おたくなのか、いわゆる「ポップ・スター」には向いていなかったのだと思う。自分の音楽が幅広く受け入れられ、それにまつわるビジネスも巨大化した。それに応えようとはするのだけど、どうも生理的に、ポップ・スターを演じることが肌に合わない。推測だが、その種の「嚙み合わなさ」はあったのではないか。この九六年以降、オザケンのコンサート・ツアーは十年以上開かれず、制作活動も休止状態になり、次のスタジオ・アルバムは二〇〇二年まで待たなくてはならなかった。
周囲を見て、自分の立場を鑑みて、「何かやろう」とは思うのだけど、うまく行かない━━当時のオザケンも、新しく首相になった橋本龍太郎も、そういう状況にあったのではないかと私は思うのだけど、どうなのだろう?