今年も暮れということで、2014年に起こった事件を振り返ってみましたが、今でも目を覆いたくなってしまうのが、7月に起きた佐世保女子高生猟奇殺人です。長崎県在住の高校一年の女子生徒が、同級生の女生徒に首をしめられたり、胴体や頭部を切り刻まれたりして殺された、あの凄惨な事件です。
犯人の実母は事件前に他界、父親も10月に自殺しているため、もはや犯人である女生徒の心を受け止めるべき人はいません。教育評論家の尾木直樹氏は「一人暮らしが彼女の闇を増幅させた」と述べていましたが、その闇が深まり、これ以上の被害者が出ないことを、そして被害者である女生徒のご冥福を祈るばかりです。
しかしこの猟奇的な異常さって、実は我々と縁遠いものではなく、身近にあるものではないでしょうか。遠藤賢司が1971年にリリースした彼のセカンド・アルバム『満足できるかな』のタイトル・チューンを、上述の事件が報道された際に想起した人もいましょうから。
昔、「エノケン」の愛称で親しまれた榎本健一という喜劇役者がいましたが、それとは全く関係ない遠藤は「エンケン」の愛称で通っており、戦後の日本のフォーク・ブームの火付け役となった1人です。もっとも彼の楽曲はフォークかも知れませんが、フォークの風情を超越したところにあるわけです。1曲目の「満足できるかな」の世界観からして、それが窺い知れるというもの。
もちろん、突拍子のない世界観だけが売りのわけではありません。エンケンは目利きとしてもよく知られ、前年に発表されたファースト・アルバムと同様に、バックには細野晴臣、鈴木茂、松本隆など、いわゆる「はっぴいえんど-1」を配し、ボトムのしっかり効いたサウンドを実現しました。不参加である大瀧詠一にしても、歌い方などのところで、エンケンの影響は受けているように思います。
エンケンが「満足できるかな」を描いて40年以上。それでも、佐世保の事件からも分かるように、この猟奇性というのは、我々の生活から普遍性を失っていません。矛盾した言葉ですが、「異常なる常」がその音楽にはあるのです。