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『marble』
私家版・山崎あおい補完計画(仮)

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山崎あおいが今年(2020)の4月、自身6枚目となるスタジオ・アルバム『マーブル』をリリースした。マーブルという名前の通り、いろいろな心情を唄った、いろいろな曲がある。そういうことらしい。しかし、と不躾ながら思う。何かが足りない。何が足りないんだろう? あるいは、私は何を「足りない」と感じるのだろう? 本稿ではその辺りについて考察する。

山崎あおいは1993年に生まれた、北海道出身のいわゆるシンガーソングライターの女性である。その主なパフォーマンス・スタイルは、アコースティック・ギターの弾き語りで、つまるところ彼女は「アコギ女子」の一人なのである。個人的には、アコギで弾き語る女性シンガーとなると川本真琴が思い浮かぶが、21世紀序盤のポップス・シーンにおいては、やはりYUIかmiwaが「アコギ女子」の筆頭に挙げられるだろう。今ならあいみょんか? ともあれ、山崎も往時のYUIに憧れ、「アコギ女子」を志したという。


『marble』
2020年4月8日発売

SPACE SHOWER MUSIC

01. ivy
02. さよならセンチメント
03. propose
04. 0214
05. 0314
06. 渋谷に集うな!
07. ムナシイ人生
08. 好きだけが消えない
09. ここじゃない場所、君とじゃない未来
10. ほろよいのせい


青い下線は執筆者推薦曲を表しています。


全作詞、作曲:山崎あおい



では、その「アコギ女子」の元祖は誰か? 異説あろうが、私は中島みゆきだと思っている。初期の中島は、写真で見る限り、たびたびアコギを手にしていた。中島はヤマハ主催の「ポピュラーソング・コンテスト」入賞を機にデビューしたシンガーソングライターであるが、山崎もまた高校生の時分(2009年)にヤマハ主催のコンテストでグランプリを獲得した経験を持つ。その後、高校を卒業し、上京、2012年にビクターからメジャー・デビュー。その点で、山崎は「アコギ女子」の系譜に正統的に連なっていると言えよう。

しかし、山崎とビクターとの契約は、ディスコグラフィを見る限り2016年で切れている。彼女が「売れない」と見限られたのか、あるいはビクターの社風やスタッフが彼女に合わないなどで、彼女が自主的に契約を更新しなかったのか━━真相は分からない。いずれにせよ、彼女は数年でメジャー・シーンから退いた。

山崎の楽曲はそんなにポピュラリティを獲得しにくいものだろうか。ビクターとの契約解除の前後から、彼女は他の歌手への楽曲提供を盛んにしている。つまり「ソングライターとしての彼女」は充分、世間から評価されていると言える。となると、問題は「パフォーマーとしての彼女」であろうか。

歌声や歌唱力に問題があるとは思えない。それなら、まずメジャー・デビューできなかったはずである。となると、鍵になるのはアレンジメントであろう。歌手を生かすも殺すもアレンジ次第、とはよく言われることである。

山崎の歌声は、軽やかで清涼感がある。それならアレンジメントにはある程度の厚みや起伏がないと、インパクトに乏しくなるのではないか。そういう気がする。歌声が軽くて伴奏も軽かったら、その歌は右から左へ流れていくだけになる可能性が高い。インパクトがある編曲というと、ともすれば「ウケ狙い」としてミュージシャンには敬遠されがちかも知れないが、一般の生活者は、インパクトがない音楽には(だいたいの場合)耳を貸さない。耳を傾ける理由がないからである。それでは当然、注目もされない。


もちろん、こういった方向性が山崎の希望するところなら、私はお節介な小姑を演じているに過ぎない。それは承知している。でもそれくらい「良いものを持っているはずなのにな」と山崎について思うし、(予算が許せば)若い内にいろいろなアレンジを試したらいいのに、と思うのである。先述した中島みゆきとて、生涯の伴侶的な編曲家、瀬尾一三と巡り合ったのは30代後半のことで、それまでは様々なアレンジャーを試していたわけだし。

加えて、メジャー時代から山崎の楽曲に言われていた「等身大の女の気持ちを唄う」という方向性も、個人的には疑問に思っている。そんなもん、今時誰が求めているのかな、と。

山崎が憧れたYUIは「高校を中退して音楽の夢に突き進む、ひたむきな若い女」という物語を背負っていた。それは明確で、YUIの「等身大」とされる歌詞は、それゆえに支持された。YUIがデビューした00年代、既に大多数の若者は、大学に進学しない者でも、高卒か専門学校卒の学歴は有するようになっていた。YUIのような「中卒で夢に突き進む女」は圧倒的に少数派で、だからこそ彼女の綴る「等身大」は訴求力を持った。

身も蓋もないことを言えば、「等身大の自分」を表現してサマになるのは、おおむね少数派なのである。多数派に身を置く者の「等身大」など、誰も求めない。それは所詮、その他大勢の雑感としか位置付けられないものである。まして今ではTikTokなどで誰でも「等身大の自分」を表現し、それを公に発表できるという。いわば「等身大」のインフレで、そんな中で「等身大の女の気持ち」がどれくらい求められるのだろうと私は訝るのである。

じゃあどうしろといいのか。山崎の前作に収録されていた「鯖鯖」などは良いヒントだったと思う。彼氏は遠洋漁業の人がいい、という女性の歌。大多数の歌い手は「今すぐ会いたい」とか「君の傍にいたい」とか、渇きや熱情を唄いがちだけれど、対する「鯖鯖」の主人公は、「そんなに頻繁に会わなくてもいい」と唄っていて、そういう歌は新鮮だった。多数派とは違う視点がそこには確かにあった。それは「少数派」を唄うということでもある。ああいう路線はアリだったと思うのだけど。


山崎あおいオフィシャルサイト





 

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『存在理由』
2019~2020年のさだまさし