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『ティンカー・ベル』
松田聖子と松本隆、2人のピークの交叉

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『ティンカー・ベル』は松田聖子の9枚目のスタジオ・アルバムであるわけだけど(しかしデビュー・アルバムが出たのが1980年8月で、そこから4年で9枚目って、凄いハイ・ペースですね)、作詞はすべて松本隆のペンによるものである。ということは、このアルバムは松本隆(歌詞)という側面から語ることもできるんじゃなかろうか。

松本隆という作詞家は、この時代(昭和50年代)のアイドル歌謡においては何処にでもクレジットされていた感がある。松田聖子は言うに及ばず、小泉今日子、近藤真彦、薬師丸ひろ子。さらに昭和60年代に至っては、中山美穂や斉藤由貴、西村知美など。とりあえず「松本隆」にしとけば安全、という意識が当時の歌謡界には伏流していたのかも知れない。良くも悪くも。


『ティンカー・ベル』
1984年6月10日発売

CBSソニー

1. 真っ赤なロードスター
2. ガラス靴の魔女
3. いそしぎの島
4. 密林少女
5. 時間の国のアリス
6. AQUARIUS
7. 不思議な少年
8. Rock'n Rouge
9. SLEEPING BEAUTY


青い下線は執筆者推薦曲を表しています。


作詞:松本隆
作曲:林哲司、南佳孝、尾崎亜美、
   呉田軽穂、大村雅朗
編曲:船山基紀、大村雅朗、松任谷正隆
プロデュース:若松宗雄

つまり、この時代は松本隆の脂が乗っていた時期でもあるわけだ。当時、松田聖子の楽曲を作る番が回ってくることは、ある意味ではババを引くようなものだった、というようなことを細野晴臣が語っていた(彼は聖子作品では「天国のキッス」などを作・編曲してきた)。なにせ出す曲出す曲が片っ端からヒットするので、失敗が許されない。そんな状況は確かに作り手にとって、かなりのプレッシャーではあったろうなと推察する。でも松本にはそんな重圧はあまりなかったのではないか、とも思う。

別に松本が鈍感だったとか重圧に強かったとかいうわけではない(もしかしたらそうだったのかも知れないけど、そんなことは分からない)。脂が乗っている時期というのは別言すれば多忙極まりない時期でもあるわけで、松田聖子だからどうなのだと、かかる事情をいちいち気にする余裕がなかったんじゃないかと愚考するのである。

『ティンカー・ベル』ではそのことが、ある意味では良い方向に、またある意味では悪い方向に作用したと思う。『ティンカー・ベル』は先行シングルである「時間の国のアリス」を軸にしたコンセプト・アルバムである。テーマは女の子のフェアリー・テイルだろうか。世界観の統一を図るため、収録されているのは9曲と少ない。候補となる楽曲群の中から絞りに絞られたのだろう。失敗が許されない状況にもかかわらず、こういった遊び心が効いた演出を松本ができたのは、ひとえに彼の(様々な意味での)ピークと重複していたからだろうと思う。

では悪い方向とは? コンセプト・アルバムというのは、全体でひとつの世界観を演出せねばならない、いわばソナタのようなものである。楽章同士が有機的に繋がり合い、作用し合い、補完し合う。そう捉えた場合、いくつかの瑕疵が(あくまで個人的な見解ではあるけど)見受けられるのだ。これが惜しい。もし彼が多忙ではなく、制作期間ももう少し取れたなら、別の結果になっていたかも知れない。言っても詮の無いことではあるけれど。

しかしこの後、松田聖子自体が落ち着いた方向へシフトしていくことを考えると、奇跡的なタイミング━━松田聖子と松本隆、双方にとっての、という所で━━で作られたアルバムだと思う。この後の松田聖子は、夢見る少女像だとかファンタジーといったテイストから遠ざかって行くことになる。だからたぶんこのコンセプト・アルバムはこのタイミングでしかありえなかった。松田聖子と松本隆の2人のピークがベストな形で交叉したと言うべきか。


松田聖子オフィシャルサイト





 

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