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『Red』
1996年7月3日発売
motorod
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01. 光と影の迷宮
02. 夢見る少女じゃいられない
03. LIKE A HARD RAIN
04. SHAKE ME BABY
05. Sayonara
06. BREAK OUT!
07. GLORY DAYS
08. Love me
09. バイバイ。
10. 最後の夜
11. 今でも…。
プロデュース:織田哲郎、松浦勝人
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ええと、皆さんこんにちは。本日のテーマは相川七瀬の一作目のアルバム『レッド』です。このアルバムは九六年七月に出たんですけど、それはそれとして卒爾ですが、皆さん相川七瀬ってご存じでしょうか? たぶんだけど、今の若い人は知らないんじゃないですかね。二十世紀末はともかく、二〇二〇年代の今では彼女は全くと言っていいほどヒット曲を出していませんから。なので、まずは相川七瀬とはどういう歌手なのかというところから話を始めたいと思います。
本作のパッケージ帯を見てもらうと一目瞭然なんですが、彼女はエイベックスと契約している女性歌手です。最初期から現在(二〇二六年)に至るまで一貫して同社に所属して音楽活動を続けています。
九〇年代というのは、ざっくり言って、一九八八年に設立されたエイベックス社が急成長を遂げた時代だと申し上げていいでしょう。trf、安室奈美恵、グローブ、Ⅴ6、エヴリ・リトル・シング、浜崎あゆみなどの人気歌手が同社からCDを出し、それぞれが何十万、何百万枚と売り上げた時代です。その勢いに乗って九九年末、同社は東京証券取引所(一部)に上場しました。相川はその興隆期の一翼を担った歌手と言えるでしょう。
もともとエイベックスは主にユーロビート(二十一世紀風に言うとEDMですね)系の企画アルバムをぽつぽつと出していたレコード会社です。電子楽器で作るダンス・ミュージックが同社の売りだった。先に挙げた歌手の楽曲(特に初期の作品)を聴いてみると、それがよく分かると思います。ジュリアナ東京に代表される「ユーロビートに合わせて踊るディスコ」が東京で流行ったのは九〇年代序盤のバブル期ですが、そういう場所で流すダンス・ミュージックが大衆歌謡にアレンジされて広く浸透したのは、バブル崩壊後の九〇年代中後期なんですね。もっとも、九〇年代も末期になると、誰も「ユーロビート」とは言わなくなって、「パラパラ」と呼ばれていましたけど。
で、そうなると「じゃあこの相川七瀬って人もダンス・ミュージック系の歌手なのかな」と思うかもしれませんが、違います。いや、彼女の楽曲に合わせて踊ることは、そりゃできるかもしれません。でも彼女の曲はどちらかというとロックですよね。ただし、ハードロックやメタルに寄せた「歌謡ロック」とか「ポップロック」と呼ばれるものです。ガチのバンド音楽ではなく、あくまでロックっぽい音楽。本格イタリアンではなくB級グルメ、みたいな感じと言いましょうか。
相川やその楽曲をプロデュースしたのは織田哲郎というミュージシャンなんですが、昭和期に生まれて平成初期を日本で過ごした人であれば、どこかしらで彼の作った曲を聴いたことがあるはずです。それくらい一世を風靡した流行作家でした。有名どころだと「おどるポンポコリン」や「碧いうさぎ」でしょうか。この人はビーイング(現Bゾーン)に所属していた人で、当時のビーイングから出たヒット曲のクレジットを見ると、この人の名前が作曲者として登録されているなんてことは当たり前にありました。ザードの「負けないで」も、大黒摩季の「チョット」も、ワンズの「世界が終るまでは・・・」も、ディーンの「瞳そらさないで」も、フィールド・オブ・ヴューの「突然」も、作曲者は全部織田です。
「そういう人がプロデュースする歌手が、なんでビーイングじゃなくて、エイベックスから?」と訝るところですが、そこは分かりません。ビーイング側と織田側とで意見が違っていますので、詳しいことは藪の中です。ともあれ九〇年代序盤、とあるオーディションで織田は相川と出合います。このとき彼女は大阪在住のしがない中学生に過ぎませんでした。そのオーディション自体には不合格だったようですが、織田は彼女に光るものを感じたのでしょう、自分の連絡先を彼女に渡します。ややあって相川は織田に連絡し、歌手になるために高校を中退して上京。織田の下でトレーニングを積みます。
九五年十一月、本作に収録されているシングル「夢見る少女じゃいられない」で相川はメジャー・デビューを果たします。プロデューサーはもちろん織田哲郎。相川が二十歳、織田が三十七歳になる年でした。働き盛りというか、脂の乗った時期の織田が、若くみずみずしい力を上手にディレクションしたということなのでしょうか、オリコン週間チャートではトップ・テンに入らなかったものの、累計で三十万枚以上のセールスを叩き出す、まずまずのヒットとなりました。
八〇年代までは、新人がデビューする際はまずアルバム、その後でシングルをリリースという順番がわりとポピュラーでしたが、九〇年代になるとシングルをいくつか出して、知名度をある程度得てからアルバムをリリースし、ヒットに繋げるという手順が常態化します。相川(というか織田)もそれに則り、翌九六年六月までに四枚シングルをリリースして、七月に本作を発表。はてさて「結果はいかに?」ですが、オリコン週間チャートで一位を獲得し、その後も毎週売り上げを伸ばし、三週目で百万枚を突破。トータルで二四〇万枚以上を売り上げる大ヒットとなりました。
ここで本作の九曲目「バイバイ。」にまつわる思い出話を一つ述べます。この曲はセカンド・シングルとして先行的に出ていたんですけど、率直に言って、そんなに知名度はなかったと思います。この曲を私が知ったのは〇〇年前後、高校生の時分でした。当時付き合いのあった女友達(中学の同級生だった)と何の因果か二人でカラオケに行って、彼女がこの曲を唄って確かそこで初めて知ったと記憶しています。へえ、相川七瀬にこんな曲があるんやぁ、みたいな感じでね。
『レッド』のヒットが相川の人気をより確かなものにしたのでしょう、同年十月、彼女はシングル「恋心」をリリースするのですが、これが百万枚を超える大ヒットとなりました。私もこの曲はリアルタイムで聞き覚えがあります。同年末には紅白歌合戦に初出場。相川七瀬の名前と歌はこの年、全国区になったと言っていいでしょう。織田は織田で、相川のヒットによりエイベックスとの繋がりが強くなったのか、翌九七年には同社所属のⅤ6に(エディ・ブルーズ名義で)楽曲を提供していたりもします。