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■ 3月31日から4月29日にかけて、時計をフィーチャーいたします。







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『人気者で行こう』
サザンオールスターズが引き受けた「ポピュラー」

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誰の為本当の君を捨てるの Crazy
しなやかと軽さをはき違えてる

「ミス・ブランニュー・デイ」より



『人気者で行こう』
1984年7月7日発売

ビクター音楽産業

01. JAPANEGGAE(ジャパネゲエ)
02. よどみ萎え、枯れて舞え
03. ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)
04. 開きっ放しのマシュルーム
05. あっという間の夢のTONIGHT
06. シャボン
07. 海
08. 夕方HOLD ON ME
09. 女のカッパ
10. メリケン情緒は涙のカラー
11. なんば君の事務所
12. 祭はラッパッパ
13. Dear John


青い下線は執筆者推薦曲を表しています。


作詞:桑田佳祐
作曲:桑田佳祐
   大森隆志(11)
   桑田佳祐 & 八木正生(13)
編曲:サザンオールスターズ、八木正生、
   藤井丈司、矢口博康、新田一郎
プロデュース:サザンオールスターズ、高垣健


私が初めて『人気者で行こう』を聴いたのはいつだったか、もう正確には思い出せません。2000年代には入っていたんじゃないかな、と思うのですが、まぁ要するに遠い昔です。まだ10代のころだったかな。聴いて思ったのは、いくつかの曲を例外として、しょぼいなぁということでした。桑田佳祐の直筆の(暗号に近い)歌詞カードが、その印象に更に拍車をかけました。よろしくない。そんな印象でした。2008年にリマスター盤が出て、そちらは音のしょぼさなどが幾分かマシになっているのかも知れませんけど。

別言すれば、『人気者で行こう』は、普遍的か時代性が強いかに大別しろと言われたら、「時代性が強い」に分けるしかないということです。1984年当時に寄り添いすぎている。たとえば、紺の靴下かルーズソックスかでいうと、まぁ後者でしょうね、というような。だから後追いで聴くと、どうしても「なにこれ、ダサッ、しょぼ!」となってしまう。

では後追いで聴くメリットとは何か。それは後発の作品から遡及的に当該作品を推考できるということです。要するに『人気者で行こう』の後にリリースされた作品を参考にして、『人気者で行こう』とは何だったのかを考えられる、と。いくつかある中から私が注目したのは、以下の2作品です。

a. Tarako / サザンオールスターズ(シングル)、1984年10月21日
b. Nippon No Rock Band / Kuwata Band(アルバム)、1986年7月14日

この2作品に共通するのは何か。英詞なんです。当時も今も、日本国内でポピュラリティを獲得せんとした場合、歌詞は日本語である方が望ましい。そんなことは桑田にだってよく解っていました。それでも桑田は英詞でのリリースを試みた。将来的には海外展開もするだろうという展望、アジア圏内のロックは遅かれ早かれ全部英語になるだろうという予想、それらが当時三十路になるかならないかの青年であった桑田を駆動していたのです。

翻って、『人気者で行こう』にあるのは、そのアルバム・タイトルが明示する通り、当時の日本国内でのポピュラリティやパブリシティといったものを念頭に置いた楽曲、つまりは「ポップス」なのです。アルバム冒頭の「ジャパネゲエ」などは極めて象徴的だと思います。この楽曲を1996年に洗練、発展させたのが「愛の言霊~スピリチュアル・メッセージ」ではないかと、個人的には考えているのですが、こういったいわゆる「和モノ」がオープニングを飾っている。それは、僕たちはこのアルバムを日本の人に向けていますよ、というメタメッセージとも解釈できると思うのです。

海外に打って出る場合、まずは母国である日本での実績や評価が問題になる、と桑田やブレーンは考えたのでしょう。海外進出の前にまずは日本でトップに立つ。それも、一時の流行歌手ではなく、国民的バンドとしてそれをなさねば意味がない。サザンはそれ以前にもいくつかのシングル・ヒットを出していたし、NHK紅白歌合戦にも出場していたので、そうなる資格は充分にあったと言えます。国民的バンド、やったろやないかい。バンド側にそういったものを引き受ける覚悟と技量と矜持が共有された、それが1984年のことなのではないかと思うのです。だからこそ、アルバム・タイトルが『人気者で行こう』であり、同年のツアー・タイトルが「大衆音楽取締法違反 “やっぱりアイツはクロだった!” 実刑判決2月まで」だったのではないでしょうか

「1984年当時に寄り添いすぎ」た背景は、そういうところじゃないかなと思うのです。

『人気者で行こう』は数十万枚を売り上げ、オリコンの同年度年間チャートで3位にランク・インするほどの大ヒットとなりました。やったぜ、ベイビー。そうして桑田と彼が率いるサザンは満を持して英詞モノにトライしたのです。つまり『人気者で行こう』は先述の2作品の布石だったではないかと愚考するのですが、どうなんでしょうね。


*このツアー・タイトル、ちょっと解りにくいかも知れませんが、要するにポビュラー・ミュージック(大衆音楽)が取り締まられる対象だとしたら、自分たち(サザン)はクロだと言っているわけです。つまり、僕たちは皆さんに寄り添った音楽を演りますよというアナウンスメントですね。「2月まで」というのは、ツアーが翌年の2月まで続いたからです。余談ながら、この頃以降、サザンのコンサート会場は、スタジアムやアリーナなどの大会場へと遷って行きます。ちょうどこの時期が、サザンがまだ富山などの地方都市を細かく廻っていた最後の時代だったと思います。


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