どちらがどうというわけではないだろうが、作り手にフォーカスした場合では、圧倒的に前者の方が金字塔として相応しいはずだ。そこには作り手の全身全霊、一切の妥協を排除し築き上げた精神と技術、そしてセンスが間違いなく込められているのだから。
槇原敬之というシンガーソングライターを語るとき、恐らく脚光を浴びるのは彼の書く歌詞、つまり筆致力だ。彼の歌詞は読んでいて心地よいばかりではなく、新たな視点を我々に与えてくれる、秀逸かつユニークなものが多いからだ。しかし、楽曲を際立たせるべきメロディ・メイキングやアレンジにおいても、傑出したセンスを持ち合わせているのもまた事実。詞と曲、どちらかに寄らず、どちらにも類稀な見識と感性を発揮できるのが槇原敬之なのだ。
「どんなときも。」「もう恋なんてしない」など90年代序盤に大ヒットを連発し、20代前半という若さで日本のポップスの第一線に躍り出た槇原敬之。とはいうものの、そんな栄光は彼にとって良い事ばかりではなかった。高額を稼ぐ者に群がる、落とした飴に集まるアリのような人達との出会いや別れ、プライベートな時間の縮減、「商品」を次から次へ生み出せと強要され続けるプレッシャー。元々大好きだったはずの音楽に関わることすら億劫になってゆく槇原が、そこにはいたと云う。
96年、槇原は今までにない試みを行う。全英詞アルバムの制作と発表。そしてそこから吸収したものを取り込み、再起を図るべく、いつも通りの日本語の詞のアルバムも、年度後半に作り出した。もうこれを最後に音楽から引退しよう、そのための金字塔を築き上げよう、という想いと共に。それが槇原の七枚目となるアルバム、『アンダーウェア』だった。
つまり槇原敬之という作り手にフォーカスした場合、『アンダーウェア』というアルバムは、間違いなく金字塔なのである。それは歌詞を見ても、曲を聞いても恐らく感じとられる。目指されるべくして目指されたピーク、この12曲が表すものはそういったものなのである。
ことわっておくが、槇原は今も現役のシンガーソングライターである。現時点で彼にとってこのアルバムは、もしかしたら若さゆえの甘っちょろさが香る、苦い作品かも知れない。それでも、『アンダーウェア』に込められた覚悟と精神は、本物には相違ないのだ。