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『俺ら東京さ行ぐだ』
自虐もここまでやれば、ギャグになる?

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「どうせ二人は~」とか「しょせん俺とおまえは~」など、演歌というものの世界観は、一定数の例外はあるにせよ、おおむね自虐的で暗い。演歌ばかりをかけていると、洗濯物が乾かなさそうなくらい湿気ている、というべきか。その世界観が大人には沁みるんだ、と言われれば、スイマセン大人じゃなくて、としか返せないが。

だからして、青森県出身の歌手、吉幾三が1984年に発表した『俺ら東京さ行ぐだ』は、そういった自虐的な世界観を(普通ならしんみり路線にしか行かないところを)笑いの域にまで高めた名曲ではないかと思う。なぜ笑えるのかはよく解らない。発表されたのはバブル期の前夜にあたる時期、経済の安定期なのに、自分の故郷は「テレビも無エ ラジオも無エ」とラップにのせ、まくしたてて唄われる。すると笑いがこみあげてきてしまう。自虐もここまで突き抜けると清々しく、もう笑うしかなくなってしまうのかもしれない。


実は吉は「コンテンポラリーな上京物語」を叙したわけではなく、自分が東京に出てきた1960年代前半の頃のことを唄ったのだという(作詞、作曲は吉幾三)。それなら話はわかる。当時は物流面で過疎な地方もあっただろうし(今もあるけど)、テレビの普及は1964年の第一次東京五輪の特需によるものであったからして、「テレビもラジオも無い村」は、1960年代前半では珍しくもなんともなかっただろう。

しかし、残念ながら『俺ら東京さ行ぐだ』の歌詞からは、これは1960年代を詠ったものです、とは判りづらい。青森県民(の何人か)は怒った。うちはそんなに田舎じゃねぇ、と。クレームの嵐だったそうである。

そういったクレームがある程度予想されたものだったのか、あるいは吉自身が当時は「売れない歌手」だったためか、吉はこの曲をレコード会社に持ち込んだものの、ことごとく門前払いにあったという。ややあって、演歌歌手の千昌夫が数百万円で原盤権を買い取る形で、なんとかリリースにこぎつけ、それが大ヒットを記録したのである。グッジョブ昌夫。

もっとも、今日的視点から言えば、'80年代も'60年代も、そう変わらない「大昔」である。吉の詞が事実と比してどうであったかなどは、聴き手には、現在ではあまり意味を持たないのかもしれない。

『俺ら東京さ行ぐだ』は、今では立派に「田舎者の自虐ネタのスタンダード」として機能している。地方から進学や就職のために都会に出てきて、飲み会やカラオケでとりあえずこれを唄ってみたら、そこそこウケた、という人も多いはずである。立派なスタンダード化であろう。また、「日本語ラップの元祖」という再評価も受けた。

してみると、吉幾三本人と同様、遅咲きの名曲なのかもしれない。物質面での豊かさが行く着く所まで行き着いた感がある現代においては、また別の意味を持つのかもしれないけど、そこまでは判らない。

作品情報

・作詞:吉幾三
・作曲:吉幾三
・編曲:野村豊
・歌唱:吉幾三
・発表:1984年11月25日
・レーベル:徳間ジャパンコミュニケーションズ







 

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