これを書いているのは二〇二五年三月。言うまでもなく、春である。この季節になると、あちらこちらでの梅や桜の開花だとか、春一番が吹いただとか、卒業や入学を機に浮かれる若い男女だとか、いわゆる「風物詩」が目立ってくる(まぁ目立つから世間で風物詩とされているんだろうけど)。
ツバメもそういう春の風物詩の一つである。冬が終りを告げ始めると、西日本の人はどこかでツバメを見かける。ツバメは、エサを求めて日本にやってくる渡り鳥なのである。立派に春の風物詩であろう。もちろん、鳥の種類なんてよく判らないという人もいれば、外を歩いている時は大体スマホを見ているからツバメなんか視界に入らないという人もいるだろう。そのへんは重々承知している。
とはいえ、ここは野鳥の会などのサイトではない。あくまで紹介されるべきは日本製の文房具である。そんなわけで、今回の主題はツバメノートである。
ツバメノートとは何か。もちろんそういう商品があるのだが、実はこのツバメノートというのは、会社名であったりもする。正式には「ツバメノート株式会社」と言って、東京都台東区に佇む老舗の文房具メーカーなのである。

ツバメノート本社(東京)
写真提供:ツバメノート株式会社
老舗と一口に言うけど、どれくらい老舗なのか? 彼らが文具の卸問屋として創業したのは一九四〇年代後半。敗戦を迎えた、いわば「戦後」である。当時のことが記憶に残っている人は、二〇二五年の現在ではもう珍しいだろう。いなくはないが、社会の中核にはそんなに多くはいないというか。そう思えば、同社の老舗度は「まぁ老舗かな」という所かもしれない。
日本はなぜ戦争に敗けたのか。いろいろと原因は挙げられようが、その一つは「圧倒的な物不足があったこと」である。たとえば、当時の戦争では飛行機やクルマの燃料となる石油が肝心であった。石油をどれだけ保持しているかで勝敗が決まると言っても言い過ぎではない。生物としての人間は石油がなくても生きていけるが、兵器は石油なしには成立し得ないのである。そして日本は、石油をほとんど産出しないし、国際的な石油取引もどんどん封鎖された。石油不足に追い込まれたジリ貧日本は、敗けるべくして敗けたのである。
だから敗戦後の日本ではとにかく物資不足が際立ち、何かと言えば二言目には「モノがない」という有り様だった。そういう時代では、紙だって粗悪品しか出回らない。上質な紙をつくるだけの経済的余裕が、戦後の日本にはそうそうなかったのである。
そういう粗雑な紙ばかり扱う日々の中、同社の創業者=渡邉初三郎は、クオリティーな紙で作られた英国製ノートをある日目の当たりにし、深く感動したという。うわぁ凄ぇ。こんな上等なノートが日本にもあったらいいのにな。そう感じたであろう彼は、上質なノートの開発を決意。具体的には十條製紙(現日本製紙)と共同で、「良い書き心地の紙」を開発していく。そうして出来たのが、今に至るまで同社のノートに使われている「フールス紙」である。
と、ここまでの話で疑問符を浮かべた方もおられよう。同社の名前は、ツバメノートありきである。ならば会社が立ち上がるタイミングで既にツバメノートというノートが出来ていなくてはおかしいのではないか? そう訝るのが当然だろう。実は文具の卸問屋として創業した当初は、彼らは「渡邉初三郎商店」であったという。同商店が創業し、少し後になって十條製紙社とフールス紙を共同開発して、それを用いたノートがツバメノートと名付けられ、その名前が社名にまでなったという次第である。
創業者の名前が渡邉初三郎で、なんでツバメなのか? 彼が無類のツバメ好きだったのか? 別にそういうわけではない。当時、同社には燕さんという人気の営業社員(男性)がいたらしい。彼の人気とノートの上質さが相まってか、営業先からは「燕さんのノートください」と言われることがしばしばあったという。それを見た初三郎は、「ツバメ」をノートの名前に冠することに決め、かくしてツバメノートが同社の商品として世に出た。
「創業者じゃなくて従業員の名前を冠するなんてユニークだな」と思う向きもあるかもしれないが、私は(個人的には)初三郎の判断に得心が行く。当時はインターネットなどなく、電話すら満足に普及していない時代。であれば、営業や取引は、実際に対面してのことがほとんどだったはずである。つまり営業先にとっては、店主の渡邉初三郎より営業の「燕さん」の方が、圧倒的にリアリティーがあった。営業先にしてみれば、渡邉初三郎商店謹製のノートは「燕さんとこのノート」なのである。だったら、商品名も「ツバメノート」にした方が、お得意さんに分かりやすくていいではないか。私はそう思うし、たぶん初三郎もそう思ったのではなかろうか。
渡邉初三郎は、別に自己主張がしたかったわけではないだろう。彼の願いは、上質な紙を用いた上質なノートをつくり、それを世間に届けることだったはずである。それさえ果たせれば、ノートの名前なんかはなんでもいい。そういうことだったんじゃないかなと思うのである。

ツバメノート ノート A5 横罫
40枚 H2002 H40S
そこから数十年が経った現在、初三郎の悲願であった上質なノートは、同社の看板として今も変わらないデザインで粛々と生産され続けている。