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地獄草紙
後白河天皇の本分、もしくは12世紀の政治概要

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こんにちは皆さん。ええと、本日のお題は、平安時代末期、つまり12世紀に描かれたという『地獄草紙』です。

実はちょっと安心しています。というのも、この前段階に「美術」として記事にしたのが火焔型土器形象埴輪だったものですから、やっている側としても「これは美術なんかいな?」とどこかで思っていたのです。美には必ずある種の説得力が宿っている。そういう前提に立てば、なるほど、火焔型土器も形象埴輪もたしかに美術です。少なくとも私にとってはそうです。ただし「それはどこまで読み手に通じるんやろか?」とも思っていました。半信半疑だったと言いますか。でもその点、今回は絵画ですから、まぁ美術で通じるだろう、と安心しているわけですね。

前置きが長くなりました。本題に入りましょう。 

『地獄草紙』とは何か? 様々な地獄的情景を描いた絵巻物です。絵巻物とは何かと言いますと、言葉(詞書)と絵を交えながら物語を展開していく巻物のことで、絵本の原型みたいなものです。絵巻物という手法が生み出され、発展したのが12世紀の日本なんですが、これら『地獄草紙』を誰が描いたのかは正確には判っていません。いわゆる「作者不詳」です。プロデューサー(絵を描かせた人)は後白河天皇だと言われていますが。



地獄草紙 雨炎火石
東京国立博物館本(国宝)
出典:Jigoku-Zoushi.jpg
from the Japanese Wikipedia
(2007年9月24日撮影)

と、ここまで来て「後白河とか平安末期とか言われてもピンと来ない」という人もおられるでしょう。歴史の勉強では、このへんをすっ飛ばして、いきなり「1192いいくにつくろう鎌倉幕府」に行ったりしますからね。

まず12世紀、つまり1100年代の日本とはどういう時代だったのか。あの平清盛が生まれたのが12世紀初頭にあたる1118年で、後白河は彼の9歳下になります。有名な源平合戦の果てに源氏が勝利し、源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉幕府をひらくのが12世紀末の1192年。当時の日本は、平安時代に代表される貴族政治が没落し、武者が政権を奪取せんとするクーデターの時代でした。つまり「貴族エリートが国を統治する時代」から「ヤクザの親分が国を統治する時代」への移行期だったということです。

後白河天皇は、即位後4年目の1158年に譲位して上皇になり、1169年には出家して法皇となります。そして鎌倉幕府の成立と同年に崩御。平安時代の天皇の扱いは、大日本帝国のそれと大差なく、要するに「お飾りのトップ」です。名目上はトップだけど、実質的にそれを操るのは摂政や関白という、いわゆる「摂関政治」が中心でした。摂政と関白は、共に「天皇の補佐役」で、果たす役割は同じです。サポートするべき天皇が元服前であれば「摂政」で、天皇が成人していれば「関白」と呼ばれた。それだけのことです。

ところが平安末期、つまり後白河の時代には、摂関政治が以前ほどには通用しなくなりました。というのも、天皇がさっさと譲位して上皇になって、上皇が政治の実質的な指揮を執る「院政」が主流になっていたからです。後白河上皇は院政の人で、実質的に政権トップの座にありました。と同時に、後に台頭してくるであろう「武者の時代」の先駆者も、後白河の懐刀として政界の要所にいました。平清盛です。

平清盛は平家の武士で、武士として初めて太政大臣になった人物です。太政大臣とは、摂政や関白と同じ「天皇の補佐役」です。ただし、摂政や関白は、俗に「摂関家」と言われる藤原家の当主が専らに就くポジションでしたが、太政大臣は外部の人(分家の人など)が就けたという違いはあります。

そうですね、たとえば一族経営の会社があるとしましょう。そこでは社長一族が社長、専務、常務といった要職を占めている。そんなの不公平だ、と社内に不満の声が上がります。自社のサラリーマンの士気を損ないたくない社長は、「社長補佐」という重役を作り、そこになら一族以外の人間も就けますよ、とアピールする。太政大臣とはそういう「重役」です。

しかし重役は重役です。政治の世界では名目さえあればいい。これは平安の世も現代も変わりはなくて、清盛は50歳で太政大臣になりました。12世紀に武士で政界(貴族社会)にいるというのは、前例がないではないですが、出世は見込めませんでした。せいぜい課長止まり、みたいな。武士は今で言うノンキャリア組のようなものでしたから、それが関の山だったんです。ところが、清盛は重役にまで出世する。これは平安時代に前代未聞で、なんでそんなことができたのかと言えば、後白河上皇の後ろ盾があったからです。

後白河の信認を得た清盛は異例のスピード出世をし、やがて自分の娘(徳子)を後白河の息子(高倉天皇)に嫁入りさせ、その間に生まれた子供が安徳天皇となるまでに、栄華をものにします(これを「ちょっと待てよ」と気に入らなかったのが同じ武家である源氏の人達で、それで後に「源平合戦」と言われる平氏と源氏の決闘が繰り広げられるわけです)。

何を説明しているのか? 後白河は実質的な権力者であったものの、武家勢力(平氏)が台頭する際のダシに使われた人でもあったということです。

ここで問題になるのが後白河のパーソナリティーです。ここまでの長ったらしい文章は、後白河を取り巻く背景の説明に過ぎません。ここで彼が権力闘争に執心するような人であれば、これらは政治ドラマとして成立します。しかし、私にはどうもそう思えないのです。

彼はもともと鳥羽天皇の第四皇子として生まれました。つまり名家の四男で、だからと言うわけではないでしょうが、若い頃の彼は文化方面に耽溺していた道楽息子だったと伝えられます。金持ちのボンボンが、家業に無頓着なまま、バンドを組んだりキャバクラに通ったりしたようなものでしょうか。ところが何の因果か、彼は中継ぎ投手的に天皇になり、上皇にまでなってしまった。

そんな人が政治の実権を握ったら、だいたいは没落します。だから貴族政治、いては平安時代は、彼の死と共に終わった。挙句あげく、武士の台頭のダシにも使われた。なんだか踏んだり蹴ったりですが、後白河の根っこは文化系男子で、当世風に言えば「アニメやポップスが好きな男性」です。だからたぶん本人的には、政治は「まぁそれはそれとして」で、彼は文化振興に尽力してしまう。その成果の一つが『地獄草紙』です。



地獄草紙 雲火霧
東京国立博物館本(国宝)
出典:Jigoku-Zoshi.jpg
from the Japanese Wikipedia
(2008年9月24日撮影)

『地獄草紙』を見て皆さんはどう思われますか? 文字通りの地獄絵図です。もちろん、どう思われるかは十人十色でしょうが、私なんかは「こういう絵を描かせた後白河という人は、どういう人なんやろか」と思った次第です。






 

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