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ヴェルダンの三徳包丁
「あなたにとって、良い包丁とは何ですか?」

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神奈川県のベッドタウンで暮らす四十代半ばの男性サラリーマン、タカダ(仮名)は最近、そば打ちに凝っていた。そば打ち体験などで経験した方には先刻ご承知のように、そばを手打ちで作ると、だいたいは市販のそばより美味しいものができる。うどんだとなかなかそうはならず、要するにそば打ちは概してうどん打ちよりもハードルが低めであるということだが、そのためか、そばがポピュラーな関東圏では、三十~五十代になって「なにか趣味の一つでも」と思う男の中に、そば打ちにハマる人が多いと聞く。中には、勢い余って会社を中途退職し、自らそば屋を開く例もあるのだとか。

タカダもその例に漏れず、そばにハマった。会社こそ辞めなかったものの、週末になると毎夕そば打ちに勤しみ、できたそばを家族の食卓に供給した。ある日、タカダは「どうせそばを作るなら調理器具も良いのを揃えたい」と考え、奥さんからの月々の小遣いをやりくりし、少し高めの包丁を自分用に買った。後日、タカダは職場の食堂で、同僚の女性社員ヤマウチ(仮名)に、その包丁の写真をスマホで見せながらこう語った。

「もうね、スッパスッパ面白いくらいに切れるの。マジで。あんなの使ったらもう他の包丁なんか使えないって。やっぱ良いものって高いだけあるんだわ。今までの包丁が安物買いの銭失いに思えたもん、マジで」

タカダが鼻息荒く話すのを、ヤマウチは適度に頷き、適当に相槌を打ちながら聞いていたが、実際のところ話の内容にはほとんど関心が持てなかった。職場では隠していたが、じつは彼女は二年前に離婚していた。もともと料理がそんなに得意ではないのに、中学生と小学生の娘二人を抱えるシングル・マザーになった彼女にとって、毎日の食事の支度は苦行に近かった。加えて、元亭主の給料が入らなくなった分、経済面でしんどさを感じることもなくはなかった。九年前に買ったワーゲンのゴルフも、乗る頻度が少なくなったわりに維持費がかかるので、売りに出そうかと思案している。そんなヤマウチにとって、そば打ちは道楽以外の何物でもなく、タカダの包丁自慢についても、内心ではこう思っていた。

「いや、そこそこの値段で、そこそこ使い勝手が良くて、そこそこもてば良いでしょ。別に包丁と一生連れ添って心中しようってんじゃないんだから。たかだか料理のときに食材切るだけの道具じゃない」

世間が思う「良い包丁」の定義は、この二つのどちらかだと思う。タカダ派かヤマウチ派か。もちろん、どちらが良いとか悪いとかの話ではないだろう。その包丁を使うのがあなた一人であれば、あなたが「良い包丁」をどう定義しても、第三者がどうこう言う義理はあるまい。個人的にはそう思っている。

とはいえ、それで終わると「何の話だったんだ?」である。ここでは、後者に(つまりコスパ重視のヤマウチ派に)照準を当てて二〇一六年に取り上げた、ある包丁について述べる。

新潟県三条市の下村工業が二〇〇三年から展開してきた「ヴェルダン」というシリーズの三徳包丁を、このサイトで二〇一六年に取り上げた。三徳包丁とはなにかというと、用途を限定しないタイプの包丁である。つまり肉、魚、野菜から加工食品まで、なんでもおまかせのオールラウンド・プレイヤー。料理に使うアイテムに大してこだわりがなく、ただ単に生活するにおいてなにか一つ包丁を持っておきたい。そういう人向けの包丁が三徳包丁である。





「ヴェルダン 三徳包丁 165mm」

型番:OVD-11/刃渡り:165mm
本体重量:約130g/価格:税込3,240円(2016年当時)



「ヴェルダン」シリーズはオール・ステンレスの一体型。寒い冬場には持ち手がひやっとするなどのデメリットがあるものの、ハンドル部分と刃の間にゴミがこびりつくなどの心配がない、清潔感を重視したタイプの包丁である。この三徳包丁は(大半のショップで)消費税込みでも三千円台で買えたので、コスト・パフォーマンスを考えると、掘り出し物の可能性大だったのである。

なぜ過去形かというと、二〇二三年四月現在、同社は「ヴェルダン」シリーズを生産していないからである。ブランド発足から二十年足らずで、シリーズは生産中止となり幕を引いた。同社には他の包丁ブランドもあるが、残念ながら「ヴェルダン」ほどの安さ=コスパは望むべくもない。同社に訊ねたところ、アマゾンなどの通販サイトでの販売分で在庫はなくなり、同シリーズが再び世に出る予定はないという。

無理のない話ではある。同シリーズが出た〇〇年代前半とは、マクドナルドでハンバーガーが数十円で買えた、今から思えば価格破壊が著しかったデフレの時代である。そこでは消費者も販売者も「なるべく良い物をなるべく安く」を党是とし、日本経済は必然的に、アリ地獄みたいな「負のスパイラル」にどんどんハマっていった。翻って、今はデフレからの脱却を目指す、つまり「それなりにいい物には、それなりにいい値段がつく。じゃないと生産者も販売者もやっていけない」という常識的な見解が、やっと前面に出てきた時代である。そこではコスパに優れたブランドが、生産者側から「もうこれではやっていけない」と判断され、消えたとしても、さほど不自然ではない。

「あなたにとって、良い包丁とは何ですか?」

そう訊かれてヤマウチのように考えるコスパ重視勢には、受難の時代なのかも知れない。なんともはや、だが。


下村工業株式会社







 

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